感慨深い4月30日

別に振り替え休日が感慨深いわけではない。
確かに昼から飲む予定にはなっているが、体調はいまだにすぐれず、歌は無理だし、女性のいる会でもない。

結局、大学時代に3人しか親しい友人の作れなかった私は、1年か2年に一度、友人の一人がやっている蕎麦屋で飲み放題の宴にいそいそ出かけるのである。
そのお蕎麦屋さんが休みの日、昼から酒とつまみを持ち込んでイルカや拓郎やかぐや姫をギターを爪弾きながらしみじみ歌うのである。
シュールである。
「きみーがーさあーったーホームーにのこーりー・・・」だもん。
あれも歌うな。
「こーいびとよーきみはーたーびだつー・・・」
何歌おうがこっちの勝手なんだけど、あまり目撃されたくないかもしれない。

とても楽しみだわ。

ちなみに友人たちは、それぞれたくさん大学からの友人をお持ちだろうから、私と一緒にしてはいけない。

石原伸晃君は学部は違うが確か同期だな。
佐藤B作がいる!と本気でびっくりした。今は言われてみれば似てるかも、くらいの印象になってしまったが、学生の時は本当にそっくりだったんですよ。俺だけかな、そう思ったのは。今日聞いてみよう。

という、飲み会が感慨深いのでもない。

ブログを書き始めて今日で4ヶ月がたった。
19日間、取材旅に出ていたのでその間はお休みだったが、そのほかは1日も休まず書いている。
誉めてほしいが、誉めてほしくて書いているのではない。
書くことで生活のリズムを作りたかったのと、見て、聞いて、感じたことと、これまでの様々な体験が入り混じるおもしろさをそのまま書いておいたほうがよかろうという野生の勘である。

野生の勘は何かに役に立つはずなのだが、今のところ役に立っている様子はない。
ということに気が付いたことが野生の勘だったらどうしよう。どうしようってこともないんだが、まあそんなもんだってことか。

ただ、今、自分が考えていることは、今考えたから考えているわけではない。
これまで体のどこか、脳の中という感じはしない体のどこかに潜んでいる過去の思考の残滓だとか、いまだにみずみずしさを残しているかもしれない感性の溜まりだったり、悪臭を放ちそうなドロドロの憎しみや悲しみの泥沼のようなものと、新しく入ってきた身体的情報が反応し合って、今考えることが成り立っている。

私の場合、頭が悪いので、それを一体として整理した状態で表に出すことができないのだが、ひとつの刺激によってあちこちから引き出されてくるものを観察するのはとても面白い。
すべて私の内部で起こっているのでほかの人にはわからないんだけど。

この原稿で102本目。
とにかく書いときゃ、また読み返すこともあるわけで、牛のように反芻することもできる。
それもよかろう。

昨日の夜、杏さんを取材した「ソロモン流」を見ていたら、日に焼けたハゲたオッサンが視線定まらず、杏さんについて一秒くらい話していた。きったねえもん映すなと反射的に思ったのだが、それが私だっていうからびっくりするじゃない。私ってあんなに見たくない生き物になってるの?
ちょっと立ち直るには時間がかかる。
これも感慨とは無縁の話。

今日は「こんなーじだいもーああーたねとー・・・」も歌うことにする。
風邪で声が出ないんで、歌えないんだった。

俺だ。