お盆らしい

盆に移動することはまずない。
これまで2度同窓会に出席したことがあるが、ゴチャゴチャに巻き込まれるのが嫌で、数日前に帰って、盆が終わって戻る、という私なりの夏休みにしていた。PCがあれば仕事ができたりするから、恐ろしい世の中になりましたね。

そういうわけで、会社に勤めていれば通勤時間に人がやたら少ないとかいうことで、「ああ、民族大移動の期間なんだな」と実感するところであるが、この5年は盆があることさえ忘れていた。
もともと父親が生きていたころから盆に何か特別なことをしたことがなかったし、墓掃除は暇なんで墓にでもいくか位のもんで、墓に手を合わせてどうするのか誰も教えてくれたことなどなかった。父親が仏教に無関心だったというわけでもなく、親鸞は大好きだったようだから、寺がちょうど浄土真宗なもんで一応筋は通っている。
それでも熱心な檀家とはとても言えず、適当なお付き合い程度のことで、婆さんの何十回忌なんて考えたこともなかったようだし、それがうつってしまい、私もこれからの父親の法要がいつあるのかなんてさっぱりわからない。

実は今でも墓参りといいますか、墓掃除に行けば、手は合わせるが、自分の先祖に「宝くじが当たりますように」でもないだろう。成仏してください、ってのも成仏したはずの故人に対してはいかがなものか。であるから、南無阿弥陀仏でもなく、ただ、手を合わせるだけにしている。
それで間違いではないから、よろしいですよね。

そもそも原始仏教ではブッダは死ぬ間際「私の葬儀なんぞするんじゃねーぞ」と言い残している。墓も作るなだ。
それを勝手にあとから仏舎利だなんだかんだやりだしたから、いつの間にかみんなが墓を作り出してしまった。仏陀の教えに反してるなあ。盆にご先祖様が帰ってくるという話は嫌いではないが、仏教にはないよ。盆なんてやってるのは日本だけだもん。

ちゃんと調べずに憶測で語るところによれば、仏教がインドを追われてチベット、中国に移って行ったとき、もともとあった宗教と混淆して、特に中国では墓が作られるようになり、先祖崇拝が盛んになったと考えられる。

それがまた日本にやってきた時に、仏教だけではなく神道の影響も受けて墓を作り、爺さま、婆さま、父さん、母さんにあなたたちのおかげで私があります、と感謝ができるようになりました。
とは言うものの、日本の古い遺跡には死者を葬った痕跡が残っているから、死に対する恐怖、あるいは畏怖というものはあったはずで、そのころから「宗教」というものは自然成立していると思います。
「死」は怖いから、どうかゾンビのようにならないでください、と祈ったような気がするな。

仏教は「死」の恐怖をある意味和らげてくれた。
「あの世」でまた会える。
いつもご先祖様が見守ってくれている。
それは厳密に言えば仏教じゃないけど、そうしておいたほうがいいことは世の中たくさんある。

そんなわけで私は盆もいいねえ、盆踊りで好きな女の子を見つけたときはドキドキしたなあ、となかった話を作っていい気分になっている。

色々田舎にお帰りになってくつろいでいらっしゃる方々に不愉快なことを申し上げましたが、来月あたり私も下関に帰って、墓参りをしようと考えている。

で、まあ、もうひとつだけ言わせていただくと、盆のせいか、私が書くことがつまらなくなったせいかこの二日間このブログを読んでくださっている方が急に減った。淋しい。しかし、読んでない方々は今日も読んでないわけだから、この声は届かない。

帰省されている皆さん。
お帰りになりましたら、まとめて読んでくださいな。

オリンピック閉会式を見ながら書いたのでなんだかよくわからなくなりました。

このお墓はハワイ、マウイ島で大きな墓地を見つけた時のものです。
すべて日本からの移住者のもので、どれもちゃんと手入れがされていて、花も添えてありました。