唯我論

どういうわけか2月27日に書いた「不思議の国のアリス症候群」が大人気である。
「いいね!」、そんなについてないじゃねーか、と淋しい人生を送っている人が指摘するかもしれないが、なぜそんなことがわかるかというと、そう言ってくれる人がいるからである。
大変ありがたく嬉しいのだが、あれは創作じゃなくて実際に私の身に起こったことを書いただけなので、「大倉さん、すごーい」という場合は他のものも面白いよ、と書き添えてくれるともっと大倉は喜ぶと思います。

何回か書きましたが、このブログは誰がアクセスしているかは皆目見当がつかないのだが、検索でたどり着いた方々が何を読んだかはわかる仕組みになっている。今でも検索の罠に引っかかって「なんじゃこれは」と驚かれる人が多いのが、不思議の国のアリス症候群とヒカリエである。

ヒカリエの劇場には一度ミュージカルを見に行って、なかなかのものだな、と思いました。でもロンドンのウェストエンドの劇場のように観客が一体となって味わえるようなものはできないのかしら。
とまあ、少しだけケチをつけておきましょう。ヒカリエ自体は私のどんな感情も動かすものではなく「そんなに同じようなものが欲しいか」とものづくりをしている方が聞いたら、激怒するようなことしか感じませんでした。黙っててください。

しかし、不思議の国のアリス症候群については皆さん切実な悩みを抱えていたり、あれは一体なんだったんだろうと自分の中だけでクエスチョンマークをつけている方が多い。何故そんなことがわかったかというと、検索したからである。
すごい数がヒットする。
やはり私だけが天才ではなかった。
うーん、私のことだけを例にとれば、天才とは何の関係もないかも。

さて、私がその記事にその先に不思議な現象が起きたことを書くと宣言していたことを覚えている方はいらっしゃるだろうか。いないと思う。でもそれ書きますね。

私が自分の本格的な悩み、あるいは苦しみに気が付いたのは小学校の6年生くらいの頃だったと思う。ちょうど不思議の国のアリス症候群が消えかけた頃に重なって起こった。

自分を取り巻く世界がすべて「嘘」に思えてきたのである。
実在しているのは私だけ。
後の世界は私が見えているところだけ作られており、私が「この嘘っぱちの世界、消えなさい」と号令をかけると、一瞬のうちに私一人の意識だけが存在する。

そんな強烈な世界観を知らず知らずに作り出していた。
実際に恐怖と戦いながら勇気を出して口に出して号令をかけてみたが、何も変わらなかったので、なかなか敵もやるもんだとまで思い込んだ。
中学生のときに手塚治虫の「赤の他人」という私を苦しめていた世界観そのままの漫画を読んだ。

俺と同じ事を考えている。
しかもそれが公となる漫画になっている。
これは手の込んだ敵の陰謀だろうか、それとも一般的にこういうことを考える時期があるという手塚治虫の助言だろうか。
さらに私の苦しみは深くなった。
高校2年の頃まで続いていたはずである。
一時ひどくなったときは、人生に絶望したとかそんなこととは全く関係なく、ここで俺が死ぬという行動を取ると、世界はどうなるんだろう。俺が作った世界はそれを壊されまいと抵抗するんだろうか、本当に死んだ場合は世界も一緒に消えるのかとすごく興味がわいてきてガス栓をひねったこともあった。しかし、よく考えてみれば死んでしまうと検証できなくなるということに気付きやめてしまった。死ななくて良かった。

ああ、恐ろしい。死自体は全然怖くなくなったが、そんなことで死ぬのは嫌だなと、今思いました。

バンドを一緒にやっていた仲間にも打ち明けられず、悶々としていたのだが、ある日気が付いたら、それは頭の中から消えてしまっていた。

今でも当時のことを鮮明に覚えているということは、55歳の現在でもその不吉な変質的な思い込みは一時的に鳴りを潜めているだけかもしれないが、恐らくその考え方に取り付かれて、苦しむということはもうないであろう。

私の抱えていた苦しみは唯我論といって、特別おかしな考え方ではなく、多くの人が唯我論の中にいたことがあるとわかったからである。
あえて唯我論が個人的に(唯我論は常に個人的である)発生するメカニズムついて調べたことはない。
若気の至りにしては、ちと深刻である。
不思議の国アリス症候群と何か関係があるんだろうか。

「我思うゆえに我あり」とはかなり内容が違う用に思うんですが、これ読んでいる皆さん、同じこと考えたことありませんか。

こんな感じの青春じゃなかったような。