怒鳴る爺さん

毎日縛りを解いた瞬間から身体から力が抜けてしまい、何にも思いつかないという私自身が予想していた通り、新年から情けないブログとなっておりました。
皆さん仕事始めだなあ、ざまーみろ、と邪な思いが頭をかすめた瞬間、目が覚めてこうして再び書き始めております。

改めまして、明けましておめでとうございます。

昨日は朝、昼から酒を飲むこともなく、用事があって出かけたりしていたのだが、電車はガラガラ。こんなにすいている時に乗らないで、どうして混んでる時にすし詰めになりたいのか理解しがたい。
あらら、ラクチンだ、とスイスイ目的地まで着いて、ホイホイ帰ってきた。

しかし、私のマンションは駅からバスに乗るか歩くか微妙な距離に位置していて、私は当然バスに乗っちゃう派なのだが、娘は歩く派ということで、いかに私が堕落した生活を送っているのかがそんな小さな違いで明らかにされていくこのごろである。

バスもこんな時期はガラガラなはずじゃない。
ところが、これが不思議なことにすし詰めなんだな。
電車がすいていて、バスがギューギューというのは理解に苦しむ。
実はこれは年末から続いている状況で、このウォーターフロントエリアには魔物でも住んでいるのかと訝る私である。

因果である。
結果には理由があるのである。
現世でアリを踏んじゃったら、来世ではアリに食われる昆虫になるのである。

年末は29日、30日、31日と、どうしてこんな時期にそんなものを、とおじさんが思ってしまうコミケ東京ビッグサイトで催されていた。夕方ちょうど私が家路につく頃に大きなキャピキャピ幼児の漫画が描かれた馬鹿でかい袋を抱え込んだ、本来箱根駅伝出場のため最終調整に望んでいるはずであろう男子青年たちが暑苦しくバスの中を埋め尽くしている。
またその中の一人が出口付近でそのバッグをブラブラさせているもんだから、停留所に止まっても毎回感知機が作動して、降り口のドアが空かない。根性が腐っているわけでもないので、運転手さんが「ドアが開きませんから、出口を塞がないで」と諭すと慌てて胸に抱え込む。微笑ましいとも思えるのだが、何度もやんなよ。

という年末の出来事があったのだが、昨日はさらに客の数が増えていて、キューと身体を押し込まないと入れない。痴漢に間違えられるのは絶対に嫌なので、かばんを前に回し、両手を上げ、バンザイの姿勢で鉄の棒をつかんだ。
私は本を何冊か持ち歩くので、やや大きめのバッグが必要になり、肩から提げているのだが、電車でもバスでもすし詰めの場合、油断するとかばんがコントロール不可能な場所に持って行かれてしまい、それが誰にどのような形で当たっているのか分からなくなることがある。できるだけ前に持ってくるんですけどね。いずれにしても君子危うきに近寄らずの法則をもって、両手は常にバンザイ。まさかバンザイをしている人間の手を取って「この人痴漢です」と誤解する方はいらっしゃらないだろう。

まあ、そんなことで。
で、この混雑はなんなんだろうと、沈思黙考したところ、思い当たったのは某テレビ局がお台場でやっている何とか合衆国なんじゃねーか。やるほうもやるほうだが、行くほうもどうなの、と理不尽なことを考えてしまったが、好きずきだからねえ。
しかし、こんなに混むのはいかがなものか、と情けない気分でいたら、爺さんが怒鳴った。

酔っ払いのジジイがこんな状況でイチャモンつけてんじゃねーよ。みんなが迷惑そうな顔してんだろうが。車内には重い空気が澱んでしまっている。

「いーから、あんた私の手を握んな」
「でも・・」
「こんに混んでんだから、手を握んな」

なんだよ、ジジイ、大声で無理やり婆さんをナンパかよ。
しかも、自分で動かず、婆さんに無理強いか。

「あんたつかまる所がないんだから、わしの手しか握れんだろう。バスが揺れてこけると怪我する。正月早々から怪我しちゃいけねえ、いいからいいから」
「すみませんねえ」
とよく見ると、ジジイの腕をつかんでいる。
お爺さん、手じゃなくて、腕って言ってよ。
爺さん補聴器をつけている。大声なのは耳が遠いからだ。

彼らは見ず知らず、赤の他人らしいことは会話の内容で明らかだが、バスに乗っている間中、お爺さんは「身体、大事にしろ」「いい正月にしないと」と若干お節介ではあるが、親身になって江戸弁で婆さんにまくし立てている。

そんなやりとりを隣で「ごめんなさい、一瞬疑ってしまいました」と心の中でお詫びを繰り返しながら聞いていた。
二人は偶然にも同じバス停で降りた。二人とも驚いていた。

いいお正月でした。

根津神社に参拝された方も多いでしょう。これは関係ない日の夜に撮ったもの。