巣窟の祭典

毎日本を抱えて歩いている。
歩いているだけじゃなくて、読んでいる。仕事だしな、ということもないではないが、もともとそんなことなんです。
毎日毎日、本を読んでいるから孤独な人間になってしまった。嘘。

ただ、私は映画は一人で観たいし、本も一人で読みたい。
「そろそろページめくってもいい?」って聞きながら読めないじゃん。
小学生の頃は漫画を何人かで読んでたね。
「まだー」とか叫ぶやつがいて、どんだけ1ページに時間かけんだよ、ってストレス溜めてたな。
今後はもうそんなことはないでしょう。

番組で本を紹介するには本を買うときから嗅覚を効かせないといけないんだけど、当然はずれもあるし、面白くてもこれは紹介するのが難しい、というのも出て来る。

フアン・パブロ・ビジャロボスの「巣窟の祭典」もそんな本でございました。
メキシコの作家なんだけど、大学卒業後メキシコで働いたあとスペインに留学して、その後はそのままスペインで会社員やりながら作家活動を続けていたそうであります。
南北アメリカスペイン語圏の作家にありがちなパターンです。
こういうタイプの作家はガルシア・マルケスの影響を受けているのか、スペイン語圏という土壌が生むものなのか、いわゆるマジックリアリズムがあちこちで顔を出してくるので、遅読でしか対応できない。
何度もページを戻さなくてはならなくなる。
それでも面白いんで、紹介は難しいかなと思いつつ、こっそり読み続けている。

「巣窟の祭典」は世界中で絶賛された短編に近い中編。それに長めの「フツーの町で暮らしていたら」というこれもぶっ飛んだ中編とカップリングになっている。やはり「百年の孤独」を彷彿とさせる内容で、「え、どこでそんなことになった?」とこちらの思考回路をショートさせてくれたりします。
刺激になりますよ。

巣窟の祭典

巣窟の祭典

この本はタイトル、煽りを一切省いた落ち着いた帯での解説、それから表紙に引かれて購入いたしました。
安くないんだけど、この手のものは文庫にならないのと、油断しているとすぐに絶版になってしまうので、とにかく買っておかないとあとで大変後悔することになります。

実は最初は気がつかなかったんだけど、表紙がボッシュ(最近はボスと呼ぶようになったようです)の「快楽の園」の一部を大きく伸ばして作られております。
私はこのマドリッドプラド美術館に置いてある「悦楽の園」の前に立つと1時間は離れられなくなる。
観音開きになったそれほど大きくないこの不思議な絵は、何百という情景を細密画のような異様に細かいタッチで描き込んだまさに「悪夢」の集大成。

人によっては気味が悪いと避けて通るでしょう。
でもこの絵は自分の中にどろどろと沈殿している真っ黒にしか見えない得体の知れないものをいちいち「これでしょ、これじゃないの?」と突きつけてくるんですよ。

うまいこと小説の内容と合わせたもんだ。
誰が選んだのかはっきりしないが、このカップリングで売られているのは日本だけだから、日本人の装丁じゃないかと思います。
無理にとは言わないけど、読んでくれる人がいると嬉しいな。

プラド美術館は一日いても飽きません。
スペインはほとんど仕事でしかいかなかったんで、写真が極端に少ないです。
グエル公園、バルセローナ、スペイン。