震災のことがうまく書けない

本日の「ごちそうさん」。
楽しいかどうかは心持ち次第。

本題。
数日前からマスコミでは震災報道が増え、突然復興に関する問題が特集されて「忘れてないよ」と声をからしている。
本日はすべての局で震災特番が組まれている。

復興の難しさについては唸ってしまうような現状を知ることになり心が痛みますが、テレビで取り上げられているようなことにどうしても違和感を持ってしまう私がいます。
あれだけ多くの人の命が奪われ、住む場所も失ってしまったことに動揺はするのですが、なぜだろう、うまく咀嚼できないんです。

何かを書こうとしてもどこかに嘘が混じってしまうような気がします。
だから書けません。

震災直後にビートたけし週刊ポストのインタビューで話したことが今でも一番しっくり胸に収まります。
こんなことをしていいのかどうかわかりません。
多分いけないことであとで削除されるかもしれませんが、その一部を抜粋させていただきます。

 「常々オイラは考えてるんだけど、こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。

 じゃあ、8万人以上が死んだ中国の四川大地震と比べたらマシだったのか、そんな風に数字でしか考えられなくなっちまう。それは死者への冒涜だよ。

 人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。

 本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。

 一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。

 そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。」

大倉は何もわかっていない、という批判はその通りだと思います。
大変申し訳ありませんが、本日はこれだけです。