猿の惑星 新世紀 ライジング(DAWN OF THE PLANET OF THE APES)

3日続けて映画の話題ってのはどういうもんか、と逡巡しましたが、これはやはり外せない。

猿の惑星」を初めて見た時はそりゃもう衝撃でしたよ。
最後が自由の女神だもん。
えーっ!なんて声上げたりなんかして。
あの時は制作者もこの映画の意味を深く考えてなかったんじゃなかろうか。
1968年、なんせ私が小学生の時だもん。
調子に乗って5本も作っちゃったけど、途中でつまんなくなって観に行くのやめちゃったね。

新しいシリーズは前シリーズとは視点が全く異なっている、と私は勝手に決めている。
そんなん自由でしょ。

人間はこの生態系の中でどれだけ異様な存在であるのか。
これである。
岸田秀の門下生(一度も会ったことないけど、同じことばっかり書いている本だけはほとんど読んでおります)である私は、映画を観ながら、ああ、こういう形で岸田秀理論が「映像化」されているよ、と感慨に耽ることしきり。

人間と他の生物が決定的に違うのは、外界をありのままに感じることができなくなった本能を失った動物である、ということです。
なぜ本能を失ったかは面倒なんで、岸田秀の本を買って読んでください。
お腹が減ったら何か食べたい、排泄したくなる、セックスもしたくなる、本能あるじゃん、と反論したくなる気持ちはよくわかる。
でも、ないんだな、これが。
上記挙げた行為は生理的反応であって本能とは関係ない。
わかりやすい例を挙げてみます。
セックスはしたくなっても、人間はのべつまくなししたくなる。
発情期なんて合理的なものが存在しない。
「遺伝子を残すためにセックスするぞ」というケースは長い人生の中ではごく一時的なものである。
しかも「子供が欲しい」という概念に置き換えて、遺伝子を残そうとしている。
もちろん「子供は欲しくない」という人もいる。
子供ができても「欲しくない」という人もいる。
であるから、快楽のためのセックスを充実させるために様々な工夫がなされる。
ジェンダを超えてのセックスも充分可能である。
(ここで誤解をして欲しくないのは、ホモセクシュアルレズビアンを含む)、バイセクシュアル、トランスジェンダがおかしいと言っているのではない。人間はなんでもありなんだ、ということを言いたいだけです)

他の動物が「遺伝子を残すぞ」と考えているというわけではない。
何も考えず本能に従い、遺伝子を残すために性交を行っているだけ。

立花隆が先日「臨死体験」の続きをテレビで追いかけていたが、その番組の中でアメリカの学者が「人間はイマジネーションを持っている」という言葉が紹介されていた。
イマジネーションを持っているということは、解釈をする、ということであります。
外界と個人をつなぐときに「解釈」が必要となるということです。
解釈は人それぞれなので、場合によっては対立が起きます。

「解釈」を「文化」「文明」「知恵」と置き換えることも可能。
様々な言葉で表される「解釈」が生まれたことで、人間は「そのまま生きる」ということができない。
裸じゃ暮らせないから、衣類を身にまとう。
人と違うものを着たくなる。
欲求は無限大に広がり、言葉を生み、文学を生み、哲学を生み、宗教を生み、芸術を花開かせる。
そして、道を造り、ビルを建て、空を埋め尽くす。
憎しみという感情は違いを認識したときに生まれる。
石を投げ、弓を射、銃をぶっ放し、爆弾を落とす。

知恵とは厄介である。
知恵を得たがために愛と憎しみを知ってしまう。
今回の猿の惑星はそこをピンポイントで突いてくる。

上記、わからんことを書いてきましたが、岸田秀理論にも綻びは生まれます。
これはおかしいんじゃないの、私でも思うことがありました。
ですので、間違い上等、ということで書かせていただきました。
ただ、おおむね正しいと思っているんですけどね。

ここでまた誤解を解いておかねばなりませんが、私は人間は本当にしょーもない、と考えますが、その考える主体である私も人間で、人間が考えることはおかしいとも言っているに等しいのでどこか微妙な矛盾がございます。
私はあまりにもいろんなことに興味がありすぎて、あちこちに頭を突っ込み、どれもトホホな状態で宙ぶらりんとなっており、お前が一番ダメなんじゃん、と言われて当然。
あえて言えば、人間を愛しております。
ダメな存在、人間の愛好者でもあります。

そんな感じで、この映画を観ました、というこれはもう映画紹介じゃなくて、単に私のゴチャゴチャした胸の内を晒しただけでございます。
でも、私がそういう風にこの映画を観たことは間違いございません。

明日公開です。