灼熱の魂

何のために映画を見るのかいまひとつよくわからない。ついでに言えば何のために小説を読むのかもちゃんと理解していない。本を紹介するラジオ番組をやっていながら無責任なことだと思うが、読みたいということと、何故読むのかを理解することとは別物である。

人間が生きるためには「モノガタリ」が必要である。自分を成り立たせてくれるストーリー。それが劇的なものである必要はない。面白くなくてもかまわない。そんなこと四六時中考えている暇はないが、「モノガタリ」が崩壊した時には生きる意味を見出せなくなってしまう。

ゼロから「モノガタリ」を作り出すことは不可能だ。常にあちこちから借りてきたものをつぎはぎして、しのいでいるはず。私の場合なんか間違いなくそうである。映画を見るか、本を読むか、少し仕事をするかでほとんどの時間は消費されている。物語中毒である。その理由を明らかにしても、現時点ではいいことはなさそうなので、放っておいている。

さて、この「灼熱の魂」という映画、「ミステリー仕立てのヒューマンドラマ」とかいうキャッチフレーズがどうにも安っぽい。始まりの20分くらいは様子が飲み込めなくて多少難渋したが、得体の知れない謎の塊が少しずつほぐれてきて、心がえぐられるようなラストへ静かに突き進む。舞台がどこだとはっきり示されないのでストレスを溜めることがあるかもしれないが、中東のどこかの国でいいじゃないか。私はレバノン内戦の初期だろうと見当をつけていたら、やはり戯曲はそこを意識して書かれていたようである。年の功である。若い方はレバノン内戦という言葉さえ知らないかもしれない。誰が敵なのかさっぱりわからないような悲惨な内戦がずっと続いていた。

この映画を見ると、しばらく落ち込んでしまう。これはいくらなんでもフィクションだろう、と心を落ち着かせようとするが、もしかしたらありえたかもと思わせるリアリティがある。

草も生えないような、半ば砂漠地帯で人々はどんな「モノガタリ」を持って生きていたのだろう、と疑問を持ったが、そこにはやはり苦しみという「モノガタリ」があったことに気がついた。

全国津々浦々ではないが、公開中か公開予定。

写真はカンボジアのコンポンチャムという田舎の町の川沿いでお菓子を売って歩いているイスラム教徒の女の子。