エンディング・ノート

超ロングランの映画。
見たい見たいと願いながら、この映画だけうまく時間が合わずにこんな時期になってしまった。よくまとまってるなあと思いながら、朝早い上映にもかかわらず、正月3日から集まってきたお客さんと一体となって、一緒に笑ってボロボロ泣いていた。一瞬嗚咽をもらしそうになったが、いいおっさんがそんなまねはできないので、鼻と口を押さえてこらえましたよ。

ただ、ちょっと私が勝手にイメージしていたものとは違っていた。
少し違和感を感じたのはうますぎること。ドキュメンタリーではあるが監督自ら亡くなったお父さんに成り代わりナレイションをつけている。これが一番大きな違和感の元。声も可愛いし。カット割りも上手。
あまりうまいとそっちに気が取られてしまう。
ちゃんと調べていかなかった私がお粗末なのだが、是枝裕和監督が製作プロデューサーになっている。
どの程度内容に関わっているのかわからないが、かなり口を出したんじゃないかと邪推したくなってしまう。違ってたらごめんなさいね。

それにしてもこれだけ娘に愛された父親ってどうすればなれるわけ?癌宣告を受ける前から、ずっとビデオカメラを回し続けている。まさかそのときから映画にするつもりじゃなかったろうに。

さて、私の歳になるとどう死ぬかを考える。
病院で死ぬのか。葬式はどうするのか。墓はいるのか。
私はどれも勘弁していただきたく、もうすぐ死ぬとわかったら、インドかネパールに一人で行って、宿の主人に事前に金を渡し、「死んだら家族に連絡してくれ、一応死亡証明書なんかがあるようなら、それもお願いね。それで焼かなくていいから、河に流してちょ」という行動に出る、と家族に宣言したのだが、インドやネパールまで行くのがめんどくさくて嫌だ、と拒否されている。
拒否されてもねえ。勝手に出て行かれたら仕方ないでしょ。何故か死ぬ時は野垂れ死にこそ私にはふさわしいと思い込んでいるんだね。一時父親と関係が悪かった時に、「この野郎野垂れ死にしやがれ」と呪ったトラウマかもしれない。父親は安らかに息を引き取ったのだが。

大昔、「鳥葬の国」という本を読んで、その死体処理の様子にはさすがに「ごめんなさい」という気分になったのだが、この数年、自分の死体は動物に食べてもらうのが一番ありがたいと真剣に考え始めた。人間は捕食ピラミッドの頂点に立ち、生態系を壊し、好き勝手に食べてもいい生物を決めてやりたいほうだが、せめて最後くらい生態系の中に取り込んでもらいたい。食って食われてでいいじゃないの。私の肉が多少なりとも他生物を生かすことに貢献できるのであれば、ようやく地球に生かされている生物のひとつになれる気がするのである。どうなんだろう。こんなこと考えたことある人いるのかしら。
日本の法律では無理なんでしょうか。どこかそれを許してくれる国はないものか。そろそろ真剣に調べようと思っている。

鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記 (講談社学術文庫)

鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記 (講談社学術文庫)

インドで火葬の撮影は禁じられているが、ネパールでは問題ない。パシュパティナートの側を流れているバグマティ川の火葬ガートにて。