捨てられた「運命の人」

ホントにもう。

本日書くのは外務省機密漏洩事件のことではありません。
それのことは、現在我々が直面している、「ウィキリークスを評価するか」「ネット規制」「サイバーテロ」「マスメディアの凋落」等々の問題とも絡んでくるので、詳しく論じたいと考えております。

ゲロゲロ、となったのは私が読んでいた山崎豊子の「運命の人 三」が私の仕事用デスクの上から昨日忽然と消えていたことである。

「運命の人」は2009年に単行本が出版され始めた時から、ちゃんと買って全巻揃ったら読み始めようと楽しみにしていて、そのうち読む本がデスクの左横に何がどうなっているのかわからない状態で積み上げられていくうちに、頭の片隅に追いやられることになってしまっていた。
読むのは楽しみだったんだけど、事件のほぼ全容は頭に入っていたので、「まあ、そのうち」コーナーに入っちゃったんだな。

そうこうしていたら、文庫本が出てしまった。
損をしたとかそういうんじゃなくて、急に罪悪感が目覚めた。
私にとって本はただの「物」ではない。
「そこいらじゅうに読みかけの本をばら撒くのをやめろ」と小言を言われているのだが、それは違う。いつでもその気になった時、読みたい本に手が届く仕組みを作っているだけ。
本は読んだ後も私の血、肉となっているのでどうしても捨てられない。私の分身のようなものである。
「血、肉となるのは、本から得たもので、本じゃないだろう」とおっしゃる方がいることは存じ上げている。正論である。しかし、これについて私に正論は通らない。
杏さんもそう。
喜国雅彦もそう。
仲間は結構多い。

で、文庫本が出て読まなきゃと思い、「読むべき」コーナーに移した。
そうしたら今度はテレビで「運命の人」が始まってしまったじゃない。
あせったよ。
すぐに読み始めた。他の本との並行読み。
政府のえげつない攻撃に腹を立てたり、耐える奥様に恋したり、忙しい本だ。
テレビドラマを見てはいけない。いいわけないだろう。録画して本を読み終わったら松たか子真木よう子と恋に落ちようとグイグイスピードを上げつつ、仕事で読む本を一時的に優先し、デスクの山の上において外出した。

朝、今日は最後まで読めるな、と第3巻を探したらどこにも見当たらない。またどこかにまぎれてしまったな、「出ておいで、私の可愛い子猫ちゃん」と優しく声をかけながら落ち着いて探したが、ない。
女房が知っているはずはないだろうと思いつつも尋ねてみた。
「『運命の人』の第3巻がないんだけど、知らない?」
「えっ!」
「えっ!てなに」
「あんたのゴミ箱に入っていたから捨てちゃったよ」
「捨てるわけないだろう。1、2読んで、4巻もちゃんとあるのに」
「そんなものゴミ溜めの部屋にあるかどうか分かるわけないじゃないの」
娘が「うん、うん」と黙ったまま首を縦に振っている。
「あんた、よく間違えて同じ本を買うと、ゴミ箱に捨ててるじゃないの。私のせいじゃない」
じゃあ、何かい、地震の時、山の上からするするとゴミ箱の中に落ちたわけかい。私のマンションの部屋は17階なので、よく揺れるのである。俺のせいかい。しかしゴミ箱から一応出しといて聞くってのはどうなの?ゴミ溜めの部屋の中のことには責任は持てないってことか。
そうかも。

アマゾンで中古単行本を注文した。

今日でテレビドラマ「運命の人」は第三話目である。
古本屋さん、頼む。急いであげて。

ちなみにモデルとなった元毎日新聞記者の西山太吉氏は下関西高校出身。私の先輩にあたる。

写真は西高そばの丘の上から下関を一望したもの。