「運命の人」どう?

山崎豊子の「運命の人」を読むに当たっては、些細なことではあるが、ショックな出来事があった。何があったか知りたい人は「捨てられた『運命の人』」を読んで。このブログのどこかに隠されています。

いろいろあったが、とっくに読み終わっている。
西山太吉が沖縄に行っていたという設定は事実かどうか確認できないし、小説自体基本的にフィクションなんだから、そこらあたりはどうでもいいんだが、改めて小説となった外務省機密漏洩事件については考えさせられることが多い。

ネットでそのあたりのところサーフしてみると、意外に山崎豊子西山太吉への批判が多いんだね。

確かに山崎豊子は過去何度か盗用事件を起こしていて、謝罪もしている「前科者」なんだけど、それで「許せん」というのはおかしくないか。「もう書かせない」というのが正しい姿勢なの?
取材をした上でフィクションとして書かれたものなんてたくさんあるどころか、全くの取材なしのフィクションなんてのもないでしょう。

沈まぬ太陽」では「事実と異なる」と日本航空から抗議があったけど、小説なんだって。
確かにあの小説の主人公と思われる人がいたことは事実だけど、しつこいようだが、小説なの。

「運命の人」では渡邉恒雄が「俺は絶対あんなことしていない」って怒りまくっているらしいけど、渡邉恒雄なんて人出てこないし、小説なんだってば。

ギリギリの線で書いているのは認めるけど、このタイプの小説家は絶対に必要。
山崎豊子を非難するのはかまわないが、排斥しようとすることは言論弾圧である。

いかなる書かれたものについても批判的な目をもって接することが最も大事でしょう。
マスコミの言っていること、書かれたものはすべて嘘、ネット報道こそが信用できるソースであるというふうに考えている極端な人もいるが、もともとマスコミを信用しすぎているからそんなことになる。
すべての報道は疑うのが当然。人間が書いているんだから。
書く人間の視点は100人いれば100人違う。また、書けば必ず文字にならずにこぼれ落ちていくものがある。

かつて、学校の先生で「活字になっているものは正しいんで、私の意見に反対の人はそれをもってきてください」というどうかしちゃった人もいたが、人間の書くことがすべて正しいことなんてあるわけないし、映像とていくらでも撮り方で見せ方が変えられる。CGが自由に使えるようになった今は信じるほうがおかしい、とも言える。

ネットでの西山太吉への批判が、かつて検察が「秘かに情を通じ」と話のすり替えを行ったことに酷似してきている。「密約なんてみんなあったって知ってるし」と書いている人がいたが、それは密約をすっぱ抜いた人がかつていたから、今こうして再び問題になっているのだ。
西山太吉の取材方法には問題はあった。取材源を守れなかったことは恥ずべきことである。悩んだとしても、証拠となる書類を議員に渡してしまったことは重大なミスである。
ただし、密約があったことはうやむやになり、モラルの問題だけに矮小化されたことのほうが罪が大きい。

ついでに言うと、アメリカの公文書公開で密約があったことが明らかになり、さらにアメリカが日本側に支払ったとされていた400万ドルのうち300万ドルは地権者に渡っていなかったことが判明している。
西山太吉が密約を暴露しなければおそらくこのことが表に出ることはなかっただろう。

私のここで書いたこともすべて批判的な目をもって読んでいただきたい。

事情があってまだしばらく録画している「運命の人」を全く見ていない。
でも、西山太吉は絶対本木さんのようなハンサムな人ではありませんでした。小説が映像化されたものではあるけど、あれはやりすぎ、と思う私もおかしいか。

これも該当する写真がないので、おそらく西山太吉も通学に使ったと思われる山道の写真を見て頂戴。

私の時代もそうだったが、手すりなんてなかったし、舗装もされていなかった。でこぼこの道で雨が降ると怖かった。