カシミールのカーペット

大学2年の春休み前、私は同期の友人の自宅のある岐阜に赴いていた。

春休みにインドに行くべく計画を立てていたのだが、当時は蚤の心臓しかなかった私は急にびびった。「誰かを連れて行けばいい」というのが最も手っ取り早い解決方法である。

一時わけのわからんサークルの一年上の調子のいい野郎に「インド行きましょうよ」と誘っていたのだが、「うん、俺もインドには是非行ってみたいと思うんで、大倉、計画書を作ってくれよ」、というアホなことを言い始めたので、「こいつ最初から行く気なんかなかったんじゃん」と気がつき、その男は捨てることにした。

では誰がいるのか。

いた。同じ中国語のクラスにいて、あまり口数は多くないけど、一緒に雀荘通いしていた水谷君。水谷君なら、一緒にいても気を使うことはなさそうだったし、何があっても冷静に対応可能な人物だと見込んだ。

問題は本人が行きたいかどうかである。
私はその手の説得には自分で驚くくらい自信がある。
説得には1週間くらいかかったが、「自分を変えるチャンスやで」「今しか行けんのう」「見てみーや、このタージ・マハールのでかいこと」てなことを繰り返しているうちに、その気になってくれた。

よし、あとは金だ、金がない。もともと金がないのに、バイトをすればすぐに飲んでしまっていたので旅に出る金なんぞ一円もない。
今度は親への無心。
「俺は灼熱のインドで何を考えるんか、それを知りたい」
これが意外に効いて、わりに簡単に金が出た。

水谷も金がない。

「実家に一緒に来て、親に会ってくれ」
「お前を嫁にくださいって言うんか」
「なかなか金出すっていわんのや」

ということで、私は今岐阜に来ております。
タイムスリップ中。

「あー、よー来たねー。ゆっくりして行って」
「はい、ありがとうございます。先ほど娘さんにもお会いしましたが、可愛い方ですね」
「なんならもろーてくれんかね」
(このあたりから、岐阜の言葉を忘れているので、下関弁で代用しているところ多数あります)
「喜んで」
「で、あんたはインドに行こうって、息子を誘っとるらしいね」
「はい、今でないといけないインドに親友の水谷君と是非一緒に行きたいと思いまして」
「インドのなんがそんなにえーんかね」
「インドは矛盾の塊のような国です。なにしろ暑いし、カレーしかないし」
「それは矛盾じゃないやん」
「誠にその通りで、矛盾はいまだに厳しいカースト制度が残っているところです。そんな自由のない国で、僕たちは暑さに耐えながら何を考えるんでしょうか。自分で見て、体験して、頭で考えるのではなく、身体で考えたいと思います」
「うーん。でも危ないやろ」
「危ないのはどこにいても同じではないでしょうか。男子大学生が『知らないから危ない』で行かない
のは情けないと思うんです」
「まあ、飲んで飲んで」
「たくさんいただいています。ところですごくお腹が減ったんでお茶漬けとかありませんか」
「あら、ご飯がなくなっとるよ」とお母さん。
「大丈夫です。炊けるまで待ちますから」
グラングランに酔っ払って、あることないこと言いたてて、お茶漬け2杯くらいお代りしてたら、あきれ返ったお父さんは「明日返事する」とおっしゃってどこぞへ消えていかれた。

そのまま前後不覚で寝てしまった。

翌朝、お父さんは「元気に行って来い」と一言励ましの言葉をかけてくださった。
いいお父さんだったよな、水谷。ご健在でしょうか。

インド、ネパールをまわり、最後にしばらくの間イスラム教徒と政府軍の間で激しい戦闘が続いていたジャンム・カシミール州のスリナガールにたどり着いた。当時は紛争の気配すらなく、ハウスボートがウジャウジャ浮かぶ湖で憩うことのできる、いわゆるインドの喧騒とは縁のない別世界であった。

私はここで親からの指令を受けていた。
「金を出すからカーペットを買って来い」
嫌だはありえない。
カーペット屋で100本くらい超豪華な絹のカーペットなんかも見せてもらい、ほどほどの大きさ、お値段のものを購入した。

そのカーペットは実家でずっと玄関に置かれていたのだが、母親が東京に出てきて置く場所がなくなり、一昨日私のマンションにやってきた。34年たってようやく私のものになった。
我ながらいい見立てで、一段生活の質が上がったと勘違いしてしまう。

カーペット買うならカシミールですよ。今はパキスタンとの管理境界に近づかない限り安全です。
品質は私が保証しましょう。騙されて高く買う分に責任は持ちません。

その頃は写真を撮っていなかったので、お見せできるものがない。
仕方がないのでカシミールの住民はイスラム教徒ということで、デリー最大のモスク、ジャンマー・マスジットの様子を御覧ください。