下駄で大学へ行く

大学へ入ったら下駄で通学するのが夢だった。

さすがに入学式に下駄で行く勇気はなかったが、数週間たったところで、わざわざ下関から持ってきていた下駄を履いて行ってみた。

下駄の効用は色々言われているようだが、そんなものに興味はない。
田舎者全員が憧れる早稲田に落ちた私は、どの大学であろうと早稲田方式で通すことにしていたのだ。
そこんとこ相当ねじれていますね。今考えれば。

下駄はね、背が高くなった気がするんですよ。女性のハイヒールと同じ。シークレットブーツとも同じか。違うな。数センチ目の高さが変わっただけで世界が見渡せる気がしてくる。それだけでもありがたい履物である。

歩きで通っていたので、途中で見咎められることもなくあっさり入れてくれた。
咎めるといっても「君、下駄はダメだよ」とは言えんだろう。かつて福澤君だって下駄で教えに行ってたろう。学生もみんな下駄だったんじゃないの?

文句付けられたら、ちゃんと反論の材料だって用意していたんですよ。

しかし、あれだ、最近の学校はみんな床がコンクリなので、歩くたびにカラーンコローンと傍若無人な音がする。かといって、構内だけ裸足になるわけにもいかないし、音が出ないようすり足で歩くと、下駄で前かがみになってこっそり歩いているようで、公衆の面前でこそ泥の格好である。

そのような卑屈な真似はできないので、堂々と高らかに下駄の音色も涼しく教室から教室へと闊歩したものであった。

ある日、私が人ごみを通り過ぎると「下駄はやかましいんだよ!」と怒鳴る者あり。
すわ、福澤先生の精神を叩き込んでやろうと振り向くと、学生服の集団がこちらを睨んでいらっしゃる。私はあの人たちはとても苦手。いわゆる体育会の方々である。

「俺が言ったんだよ」
とでも叫んでくれれば、こちらは桂小五郎の伝統を受け継いだ下関弁で堂々と論陣を張ってやろうと構えたのだが、だめだね、あいつらは。
私の下駄に気おされて、睨んでいるだけだ。
「用がないのなら、失礼」とは口が裂けてもいえないが、黙ってその場を後にした。

雨の日であった。
大学側の駅の短い階段から足を滑らせて、無様な姿を晒してしまった。
まただ。
「下駄なんか履いてるから、こけんだよ!」「ふふふふふ」という若い男女の哄笑。
きっ!と振り向くと、もうみんな知らん顔。
スッゲー痛かったんだが、すくっと立ち上がり、雨の中を再びやや湿った音を立てて立ち去った。湿った音には私の心持も若干現れていたかもしれない。

アパートは当時は畳でない部屋などなかった。
下駄から畳に移ると不思議なことに、ふかふかのじゅうたんに降り立ったような柔らかさを感じる。
それだけ下駄はダイレクトに衝撃が伝わってきているわけである。

なるほどな、と思った。

いつの間にか下駄はしまわれてしまったが、なんと美しい青春の1ページであろうか。

学生諸君、下駄で美しい学生生活を飾ろうではないか。
早くやったほうがいい。
もう少したつと、「いまさら」という常識に縛られて履けなくなるぞ。

女子学生も下駄でよろしいことよ。
私のように目の敵にされることはないと思うよ。

学生がオッサンのブログを読んでいるとは思えないので、是非親御さん、息子、娘さんにお勧めください。歳とって面白いブログがかけるよ、と教えてあげてください。

新人大学生諸君へのメッセージ、パート2でした。

ずいぶん前に亡くなった私の爺さんは、下駄を愛用していた。
やはり亡くなった親父も、下駄を履いていた時期があった。
その二人のツーショット。