追悼、リヴォン・ヘルム

ザ・バンドのリヴォン・ヘルムが亡くなった。

71歳だから仕方ないと言わなければならないのかもしれないが、淋しくて朝からテンションが下がってしまった。一緒に番組を作っているディレクターが教えてくれたのだが、もちろん彼のせいではない。「お前のせいだ」じゃ、やってられませんもんねえ。

ザ・バンドは同時期に出てきた百花繚乱のバンドのひとつではあるが、特異な立ち位置を守っていた。
これ見よがしのパフォーマンスはない。
渋いハーモニーを聞かせるが、クィーンのような華はない。
大音量のギターリフで頭を揺すらせることもない。
疾走感もない。やたら複雑なプログレッシブ・テクニックもない。

そんなザ・バンドが好きで好きで繰り返し聞いていた。

連日の大学入学時の話で恐縮だが、そのときの話を思い出してしまった。

大学というところは、なぜかサークルという活動が盛んで、どうでもいいことをして、「先輩と呼ぶこと」「合コン」「合ハイ(合同ハイキングのことです。この間、杏ちゃんに話したら知らなかったので)」で無闇に盛り上がったりするグループのことである。

私が説明するまでもないか。
実は私は本当は説明してもらいたい側である。

入学式後の数日間は登校路の両端に、恥ずかしい名前のサークルの看板を持った学生が立ち並び、案内の紙を次々に渡される。こんなにもらっても選びきれないよ、とみんな思っていたはずである。

その悩みが私にはなかった。

ナニが書いてあるんだか知らないが、「楽しくって大変」的な生臭い紙を全くもらえなかったからである。私も青雲の志を持って東京に出てきた限りは、「青春」の一文字のかけらくらいは味わいたかった。

なのにさー、私の前を歩いている新入生には満面の笑顔で「よろしくね!」と声をかけているバカ面が、私の番なのに知らん顔して紙をくれない。
私がセンシティブになりすぎているのかと思ったら、あーた、何百とありそうなサークルから全部無視されているじゃないの。

よれよれのジーパンに下駄履いてる奴を入れることはサークル規定に反するというのだろうか。「私は新入生」と書いた鉢巻でもしてみようと妄想したが、ますますもらえなくなること必至である。

時機を逸した私は、その後様々な変遷を得て、とんでもないグループに所属することになるのだが、それはまた。

日吉の学内では音楽関係のサークルも外で音を出して、勧誘中であった。ドゥービーをやっていたので、ここならザ・バンドもやっているかもと勇気を振り絞り、下関弁が出ないように細心の注意を払いながら「ザ・バンドをやる人はいませんか?」と聞いてみた。

ちらりとこちらを見て、「バンドはねえ」と言ったきり相手にしてもらえなかった。
「あーもう、この大学俺には向いていない。やめたらろう」と一瞬固い決心をしたのだが、次の瞬間には、ラーメンを食べに学食に向かっていた。
関係ないけど、あのころの学食のラーメンはひどかったね。食いもんじゃなかった。

そんなわけで、田舎の高校生にはちょっと難しかったザ・バンドのコピーだが、その後、ファンクバンドにまでたどり着いたが、とうとうバンドで鳴らしたことはなかった。

やらなくてよかったような気もする。

ザ・バンドの音は彼らでしか出せないし、雰囲気さえも漂わないさえないことになっていたはずである。

本日はDVDの「ラストワルツ」を見ながらしみじみすることにする。

ドラムを叩きながら歌っているのがリヴォン・ヘルム。