赤江瀑さんが亡くなりました

5月21日に赤江瀑さんのことを書いて、母親とどうされているんだろうと話をしていたばかりだったので本当に驚いた。

数十年お会いしていなかった。大学に行って帰省した時に一度ご一緒させていただいたのが最後だったと記憶している。そのときは東京に行った気負いもあったのか、ずいぶんと生意気なことを言って、大変失礼なことをしてしまったような気がする。
「生意気なことも言えるようになったねえ」くらいで許していただけていたと思うが、この歳になっても若気の至りは、恥ずかしいものである。

先日も書いたが、高校生の時から何回か同席させてもらい、とても丁寧な言葉で「やりたいことやりゃいいんだよ」とケツを蹴られた結果、このような出来損ないに見える私だが、本人はいたって満足な人生がおくれていると心から感謝している。

同じことの繰り返しになるが、瀑さんは「耽美派」のエースとされ、作家のファンも多かった。
大作家になられても静かに下関の自宅で書いていらした。
母親の牛筋入りのおでんを喜んで食べてくれていた。

ある日、友人で地元の劇団を主宰している方といらした時、その主宰者のオヤジが私に「君は将来のことをどう考えているのかね」と耳を疑うようなことを尋ねてきた。私は「将来のことより、今をどう生きるかでしょう」とクソ生意気なことを言ったら、オヤジは頭にきて「君のような人間は必ず失敗する。ろくなことにならん」と学校の先生のようなことを言い始めて、激論になったことがある。

私の父親は、私がさっぱり勉強しないことに腹を立てていたはずなのに、そのときはなぜか「わが息子ながらよく言った。今を生きずになにが将来だ」と援護に回った。こちらとしては「こりゃ儲かった」である。酔っ払っていても言ったことは言ったことである。
瀑さんはいつもの色つきメガネをかけたまま、黙ってそのバカ話を聞いていた。
あれは笑っていたのだと思いたい。

劇団主宰者は好き勝手なことをやっていて、たまに父親や瀑さんと揉めていたことがあったが、それでも一緒に酒を飲んでいたのでウマはあったのだろう。
私も芝居のバックでバンドをやってやると大見得を切ったが、とても金を払っている人様にライブで聞かせられるものではないと思い直し、何度か「あれはどうなった」と問い詰められたが、忘れたフリをして逃げていた。

私は瀑さんの作品では、初期の「オイディプスの刃」が一番好きです。

オイディプスの刃 (ハルキ文庫)

オイディプスの刃 (ハルキ文庫)

是非御一読ください。

私がお会いしたころの瀑さんは今の私よりずっと若かった。
ずっと落ち着いていらした。

母親はなぜか実家でたまねぎを物干しにぶら下げていた。
さして意味はないと思うのだが。
この裏手の居間でいつもみんなで大酒を飲んでいた。