笹と川

私がガキのころは七夕の笹はお願いを書いた紙をつけたままで、近くの川に流していた。
せいぜい小学生までだったか。
何故こだわるかというと、その後はどこからどんなものが流されたのか知らないが、あっという間に澄んでいた川の水が表現に困るほど薄気味悪い色に変わり、悪臭を放ちだしたからである。

今は、川とは呼べないようなコンクリで何もかも固めたただの水の通り道と化しているが、水はまたもとの色に戻った。
では、七夕の笹を流していいのかというと、そんなことはもう許されなくなっているようで、寺や神社に持っていって焼いてもらうか、ゴミとして捨てられるかということになっているらしい。
川を綺麗に保つために「ゴミ」は流さないということなんでしょう。
そもそも本物の笹が簡単に手に入るものなのかもよくわからないので、なんともいえないが、自宅の七夕用に笹を山から切って来る家なんてないんじゃなかろうか。

スーパーやなんかで「どーぞ」と短冊を渡され、「毛が生えてきますように」と書いて結びつける笹は本物ですか。プラスチックのものが多いんじゃなかろうか。プラスチックだと何十年も使えるから「環境にもやさしい」ということになるのかしら。
ガキのころの印象が強くて、笹を綺麗な川に流す風情が今頃になって急に懐かしくなってきてしまった。話を蒸し返しますが、七夕の笹はゴミですかね。毎年ほとんどの家で使っていた笹は川に流していたけど、それでとんでもないことになった記憶はまるでないんだけど。
川が汚れたのは別の理由だ。

人間は川にいろんなものを流す。
精霊流しも禁止になるんだろうか。
インドやネパールでは毎日大量の花、焼かれた死体、死体から剥ぎ取られた衣類(焼かれるときは衣類は一緒には燃やしません。裸とわからぬように薪の山から見事に抜き取る専門家がいます)、その他、あれやこれやも流す。
何でも流せる神聖な流れである。

「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
鴨長明はこれを無常に例えているが、アジアでは宗教、形態は異なるが、川は常に信仰の対象になっており、その川で涼をとり、重要な蛋白源の供給も受けている。
いつまでも川がそのままの状態であってくれれば嬉しいが、そうでもなさそうなのがとても恨めしい。

ネパールのパシュパティナートを流れるバグマティ川はすでに汚れが目立ち始めている。
大きな工場があるわけでもないので、旅をしている限り、その理由を突き止めることは難しい。

もうこの時期は蛍の季節を外れているが、2、3週間くらい前までは山口の田舎では綺麗な川沿いでは蛍が舞っていたはずである。実家の近くの小さな川にも蛍がいた。毎年嬉しくて笹を持って蛍を見に行っていた。経験のない人が多いだろうが、笹をゆっくり揺らすと本当に蛍が笹で身体を休めていた。そのまま持って帰ろうとすると、すーっと川に戻るのだが。

今はその川で蛍を見ることはできない。
生息地が限られてきている。

あるとき大分の田舎に泊まったとき、大きめの川に蛍が群れを成して乱舞していた。
宮本輝が書いた「蛍川」ほどのものであったかどうか、比較ができないが、あんまり驚いてしまって声も出せなかった。もちろん笹を持って走り回った。
あれほどの数の蛍がもう一度見れたら、泣いてしまうかもしれない。
最近、涙もろいので注意しなければ。

来年は蛍を探しに日本で旅に出てみようと思っている。

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