前田さんとカリスマ

今朝も朝早くからAKBの前田さんが卒業ってどのテレビ局も大騒ぎ。
オッサンには関係ないから黙ってろよ、といわれればその通りなんで黙っててもいいんだが、この完全に社会現象としてどっしり座り込んでしまったAKB、前田さんという記号はなんなんだろう。

好きだ、嫌いだに文句を言うつもりはないんで、そのように読んでくださいな。

初めて前田さんが14歳からAKBで活動していたことを知りました。7年ですか。
「AKBが私の青春でした」という内容のことを泣きながら話していらしたが、21歳でしょ。あとからそういう時期もあったとご自身も思われるのかもしれないが、いくらなんでもこれで青春が終わったということはないだろう。言葉の綾だったんだとは思うけど。

AKBは社会的現象としてみれば記号として機能しているグループであるが、当然その中で活動している女性たちには毎日がリアリティ溢れるもので、踊りにも歌にも総選挙にもじゃんけんにも必死で力を注いでいるわけである。
しかし、本人たちも芸能の世界を長く見ているわけであるから、いずれこの現象は消費されていくことはわかっているだろう。それでも「今」を生きる彼女たちは、生き抜くしかない。

前田さんは理由は何回説明されてもよくわからないが、21歳で「卒業」という選択をされた。
アイドルという極めて日本的なポジションから離脱を決意した、ということになりますね。
日本的というのは悪く取らないでいただきたいんだが、飛びぬけて歌も踊りもうまくないけれど、需要をうまく作り出すことによって、トップスターに上り詰めて行く方々という意味で話を進めている。
水着でポーズをとる女性のことをではありません。

もともとアイドルという言葉は偶像から来ている。
共同幻想が作り上げる崇拝される人というところであろうか。

美空ひばりもアイドルであった。
ただ、美空ひばりの場合は驚嘆すべき歌の才能、映画で人を魅了するすべを完璧に身につけていた。
AKBの創造主である秋元氏は作詞家としてはある意味頂点とも言っていい美空ひばりの「川の流れのように」を書いている。美空ひばりが亡くなる前年に作られた曲である。芸能の全てを知り尽くした大スターにあたかも捧げるように書かれたものと、現在AKBが歌う歌詞が重ならない。
器用な人なんだという納得の仕方もあるのだろうが、私には秋元氏の底が見えない。
美空ひばりの最後の大ヒット曲を書いたことで、「今」求められるアイドルを模索したのだろうか。

前田さんに絶叫する何十万人の人がいても私にはその場に立つ前田敦子から美空ひばりが持っていたカリスマ性は感じられない。これは私がオッサンだからではない。人の前に立ち一言話しただけでファンでなくてもそこにいる人間全員を圧倒してしまうような存在感が美空ひばりにはあった。

川は流れ、同じ水に見えても常に変化している。
カリスマ性を持つアイドルは必要なくなると秋元氏には見えていたのだろうか。

客が数人しか入らないこともあった秋葉原の小さな劇場から武道館という会場を熱狂的なファンで埋め尽くす成功譚には確かにモノガタリがしっかりと塗りこまれており、ファンもメンバーもそのモノガタリに酔いしれ、笑い、泣き、感動するのだが、そのモノガタリはカリスマを必要としていない。あるいはカリスマを排除する仕組みができている。

カリスマ必要論を語っているのではない。
秋元氏は今の日本を見ながらカリスマは求められていないことに気がついたのではないか、ということを推論しているだけである。

無理やり政治状況と結び付けようという気もない。ただ、現状も今の日本人が選んだものであるということだ。

「秋元氏は何がしたくてAKBをやっているんだろう」と聞くと「アイドルが大好きなんですよ」という答えが返ってきた。求めていた答えとはずれているんだが、「なるほどその通りかも」と深く納得させられる答えでもあった。
「日本を元気にしたいんですよ」と言われたら、逆に怖くなったような気がする。

インドのゴアではマリア像がいたる所に立っている。ヨーロッパのカソリックの国より多いような気がした。マリア像もひとつのアイドルである。