アウトレイジ ビヨンド

ヤクザ映画にやられてしまうというのはどういうことなんだろうか。

「反社会的勢力」というものが具体的にどんなもんで、どんな人たちかよくわからないが、すでに引退している方々の本を読むと、その辺のおかしなチンピラ政治家よりも真っ当なことを書かれていたりする。やはり現役の時にはそうとう反社会的なことをされたのかなあ、と思うと、カッコいいですよと簡単にはいえない気がするけど、じっくり話を聞いて見たくなったりするのが本音。

仁侠映画というジャンルがかつてあった。
高橋英樹の「男の紋章」シリーズだとか、高倉健の「網走番外地」シリーズは大ヒットを飛ばした。私は高校生のころリバイバルでかかるたびにその筋かしらと思われるお兄さん、おじさんに混じってスクリーンにかぶりついた。下関だからね、あの頃は今、安部晋三の事務所があるあたりはちょっと怖い目をした方々が多かったのよ。

高倉健がその頃の自分の映画のことを振り返り「これってなんなのかな、映画見たあとは人が違っている。映画は怖いものだと思った」という趣旨のことを話している。
まさにその通りで、映画見終わると1時間くらいは肩揺らしていたもんだ。

その肩揺らしは「仁義なき戦い」シリーズが始まってからは、もっと激しくなった。
それこそ目つきが完全に変わっていて、ちょっと肩をぶつけようもんなら、刺すぞ!てな感じになっていた。
広島弁と下関弁はよく似ているので、まるで隣町で起きていることのように思えたのかもしれない。

深作欣二の「仁義なき戦い」は衝撃だった。
こんなもん映画にしてえーんやろうか。
「鼻取っちゃれ」って言ってたけど、本当にやったんじゃなかろうか。
震えながら見ていたが、やはり映画館を出るとマッチ棒のような体型の高校生が肩を思いっきり広げて揺すって歩いていた。

仁義なき戦い」は濡れていた。湿度とでも言うのだろうか、濃厚にその場の息遣いが漂っていた。あまりの濃さに思わず目をそらせる場面さえあった。

アウトレイジ ビヨンド」は乾いている。観客も恋人同士も多い。
出口で肩を揺すっている馬鹿はもういない。
一作目の「アウトレイジ」はもっと乾いていた。
ヤクザ内部だけの殺し合いだが、殺しあう場面よりも怒鳴りあいが恐ろしかった。
北野監督は殺しの場面より、怒鳴るという行為のほうが圧迫感があると理解していたのだと思う。
弱い犬ほどよく吠えるというのは真実で、怒鳴りあいの言葉にはほとんど意味はないが、人が発した言葉には意味はなくても、それだけで重さがある。

アウトレイジ ビヨンド」でも怒鳴らせる。セリフを書き起こすと単語が何度も重複している。それが怒鳴るということなのだとよくわかる。
この映画はどこにも寄り道せずに、迷いなくまっすぐ最後まで突き進む。

人を殺しまくる映画なんかハリウッドでは毎年凄まじい数作られているが、そこに人の死は感じられない。感じてしまうように作れば18禁になってしまうからだろうが、人を殺す痛み、殺される恐怖はない。無人爆撃機プレデターで攻撃を加えるのによく似ている。
ハロウィーン」的なものはただの冗談である。

半村良の書いた「妖星伝」の戦闘のシーンのあとに「できるだけ残酷に見せることだ、いくらひどすぎると思っても、相手はすでに死んでいる。残酷さに相手がひるんで戦闘意欲を失えば、死なずにすむ人間もいる」とうろ覚えだがその趣旨のことを登場人物に語らせている。

アウトレイジ ビヨンド」もほとんどの人間は撃ち殺される。
残酷である。「何故人間が」ではなく「人間だから」残酷になれるのである。

前作よりも湿っていた。人が描かれている分さらに残酷だった。
お勧めします。

下関の実家の近くでも発砲事件がよく起こっていた。
そんことが身近だった。