依存症の人々

昨日、ボーっとテレビを見ていたら「依存症」の方々が次々に登場して、芸能人にボロカス言われる番組をやっていた。メチャクチャ食う人、ブランドだけしか信用できない人、ホストクラブに通う人。
見てる最中は「なんでこんなことに」と思ってしまったのだが、よく考えてみたら、同じような番組に出まくってお金稼ぐ依存症の人が、同じような番組作ってりゃ文句言われないと思い込む依存症の人にに踊らされてワンワン吠えてるのを見ているこっち側も相当病んでるんじゃなかろうか、と我に返ったわけであります。

まあ、テレビのことはどうでもいいんだけど、自分はどうだと振り返れば、完全に活字依存症、映画依存症、ブログ依存症、麺依存症の私は上記の番組の基準で言えば強制入院の対象である。

そういう風に眺めてみれば、世の中依存症だらけじゃない。
仕事依存症、ディズニーランド依存症、手洗い依存症、トイレ探し依存症、手帳漁り依存症、ブログ探し依存症、友達探し依存症、ニュース依存症、愛国依存症、方言依存症、そういえばネット依存症、携帯依存症もあるな。

面倒なのは病院依存症というのもある。
これは冗談で言ってるんじゃなくて、本当にそういう人は存在する。私なんか半ばそうだ。

私、今出鱈目に依存症を作っていったわけじゃなくて、自分や友人の顔を思い出しながら書き出したのでありまして、「この症状はですねえ」と説明だってできるぜ。

病気というのは、普段の生活が困難になってしまった状態を指す、と私は解釈しております。
特に鬱病神経症等について言えば、そうでない人見つけるのが難しいですよ。
みんなある意味病んでいる。
病んでいるのが人間であります。

急に学者の名前を出して卑怯だなあと自分でも思うが、岸田秀は「人間は本能を失った動物である」と喝破した。
この理論には穴が開いているところが結構あったりするが、基本的にはその通りだと岸田秀依存症の私は考えます。今ではかなり多くの学者が「基本的には」つきで、岸田秀を支持している。

本能を失っているが故に、自分の行いに「意味」を持たせなければならない。
本能があれば、自然の中でやるべきことが決まっているわけだから「意味」なんか必要がない。「考えない」「悩まない」。ペットとして人間に「意味」を叩き込まれたりすると、おかしな行動に出てしまう。
おかしな行動というのはあくまでも人間の側から判断しているだけで、動物としては「意味」からの脱出でもあるわけで、急に人間を襲ったりすると「なぜあんなことを」と訝る人間のほうがおかしい。

「意味」にとらわれている人間は意味依存症である。

「じゃ、お前は動物でいいんじゃない」と怒られそうだが、残念ながら私は人間に生まれてしまったので、今生は人間として意味依存症を背負って生きてまいります。

さて、普段の生活が困難になるのはなかなか人間の世では大変である。
毎日でなくとも年間パスポートを買って、週4、5回ディズニーランドに通っていたらどうやって生活するかね。個人的には気持ち悪いと思いますが、専業主婦の皆さんがお子様を連れて行き倒す分には問題はなかろう。
しかし、稼ぎ手であるお父さんが「オレもだーい好き」と毎日一人でディズニーランドの中をスキップしてたら、やっぱり病院へ、ということに家族会議で決まっちゃったりするんじゃないかしら。

人間は何かに依存してないと生きていけません。
絵を描くことに依存してたら立派な先生になっちゃった、とか、外に一歩も出ずに小説だけ書いてたら芥川賞取っちゃった、とかいう人は山のようにいるでしょう。
食べまくってたらタレントになっていた人もいる。

自分に理解できないからと人を「病気だ」「依存症だ」と決め付けんのは止めてくんないかね。
それは人の病気探し依存症である。

しつこいが、昨日のテレビ、依存症だと言われて出てくるほうも変だったが、叩く側の「タレント」さんの側のほうにおかしな人が多いなと感じました。

私はまたバックパック依存症でもある。
ムアンシン、ラオス