運転できるよ

先日あるものを受け取りに友人宅に伺った。どえらく重くて、歩きじゃまた腰を痛めそうだったため、車で行きました。
歩いて10分の距離なんだけど。
「車で行くから、車寄せまで申し訳ないが荷物をお持ちいただけないでしょうか」とお願いしていたので、受け渡しまでは大変スムーズで用事は10秒で終わってしまったのだが、友人はえらく嬉しそうである。いただけるものをいただいて喜ぶのはこちらの方なのにおかしい。

「大倉君が運転してるのって超受けるんだけど」
「運転してますよ。もう25年くらい」
「運転できなさそうじゃん」
「それは皆さんの感受性の問題でしょ」
「ちょっと写真とっていい?」
「それほどのことですか」
「FBに爆弾落とすよ」

ということで、運転席でハゲ親父が照れて苦笑いをしている締まりのない写真がアップされてしまった。
こんなもん見るやついるわけないじゃん、と笑っていたら、私のブログにはなかなか「いいね!」を押さない人たちまで、こぞって「いいね!」を連発してしまった。意味が分からん。
確かに私を知る人のほとんどは、私は運転ができないものだ、と決めつけているふしがある。
これまで何人もの人間を乗せてきたが、その度に「大倉さんの運転する車に乗るのってすごく不思議な気分です」とつぶやかれた。全員男なんだけど。

実は自分でも車を乗り回すイメージは持てない。
下関で筋もんかと思わせるお兄さんに運転を教わったトラウマからか、学生時代以来アメリカに31歳で渡るまで一度も国内で運転したことがなかった。必要もなかったし、金もなかった。
アメリカで車を運転しないということは、一日の半分は歩いているということになってしまう。
それほど暇じゃなかったので、滞在中はレンタカーを借りて自分で運転をいたしました。メリーランド州の田舎町だったから可能なことだった。ニューヨークで「ほら、運転」と言われたら小便ちびるもん。
ともあれ、若干の交通ルールの違いに戸惑いながらも徐々に慣れていきました。

ロンドンに移ってからは、ロンドンじゃ運転しない、というわけにもいかず、あの道幅の狭い、渋滞の多い、ウィンカーをぎりぎりまで出さない都会のジャングルで車を転がしたぜ。
会社にも、得意先にも自分で運転していくんだけど、疲れるね。車運転するだけで仕事をした気になってしまう。
たまに湖水地方に行く時なんかは、運転が気になって前の晩寝られなくなっていた。睡眠不足で危なくてしょうがない。
あちらじゃ、皆さん阿呆のようにスピードを上げる。日本じゃ、すぐにパトカー、白バイのお世話になるくらいの速度であります。あおられるから、こちらもアクセル踏んじゃう。よければいいんだけど、この辺りは不思議な心理で「負けられない」と思っちゃうんです。
高速でそれをやられる分には、まあ、対応しなきゃな、と納得できるんだが、高速降りて田舎道になると片側一車線、しかも道幅が極端に狭い、両側は石を積み上げて風よけにしているので、運転を誤ると車は傷だらけとなる。そんな道で100キロ近くのスピードで後ろからあおってくる。パッシングしたりする。
まだやってんのか、あんなこと。
絶対にやめろよ。

日本に帰ってからは無職だったんで、車を持とうと思ったことがなかった。
東京では自家用車は必要ない、が持論であった。
ところが、娘が「自動車があったらいいね」とのたまい始めたのだった。
幼稚園に迎えに行くことが結構多かったんだけど、お母様方はどこぞに違法駐車をされていて、車で帰って行くんだけど、私は娘の手を引いてバス待ちだったのよ。
連れもプレッシャーをかけてくる。
仕方なく10年以上前に始めて自家用車を買った。
中古のセフィーロ。今となっては何年落ちだったのかもわからない。
乗り始めた頃は、あちこちで同じ形の車を見つけることができたのだが、今は影も形もない。
車って買い替えるものなんだな、と認識しました。
今でも走行距離が異常に少ない私のセフィーロは活躍してくれている。

最近は車で遠くまでいくことはまずない。
一番遠くて両国のラーメン屋かな。
ナビはつけてるんだけど、もう道が当時とは全然変わってしまっていて、ほとんど役に立たない。

でも、運転してるよ。
驚くことじゃなかろう。
スムーズな優しい運転だよ。
「いいね!」押すようなことじゃないって。
「大倉さんの車に乗りたいな!」っていう吉高由里子さんがいたらすぐに連絡ください。

ベトナムホーチミンでの運転はお勧めしない。