書けないとこんなことになる

二日酔いでもないし、特に気になることがあるわけでもないんだけど、やっぱり書く気になれないことがあるな。
今日がまたそうだ。

丸谷才一の「女ざかり」の中で論説委員になったものの、記事だったら書けるのに社説ということになると、全く何も思いつかない、材料を与えられてもどう書いていいのかわからないというおじさんがいた。

女ざかり (文春文庫)

女ざかり (文春文庫)

映画ではそのおじさんを仕方なく助けてやる女性論説委員吉永小百合が演じていました。
かっこ良かったですね。
その書けなくて情けないおじさん役を演じていたのが、三國連太郎でした。
お亡くなりになったのは大変残念なことです。
私は「釣りバカ日誌」は一本も見ていないので、その辺りのことはなんにも書けませんが、他の作品では火を噴くような演技を見せていました。
今、テレビでテリー伊藤が「スタジオにいらしたときは、コウコウジイの顔をして・・・」と言っていました。何のことかと思ったんだけど、ありゃ「好々爺」と言いたかったんでしょう。漢字が頭に浮かんできたんだろうけど、普通その前に「こうこうや」という言葉が先に来ないかな。
いずれにしましても大変な圧力のある役者でした。
書けない論説委員の情けなさも演技とはとても思えませんでした。

私の書けない苦しさは書くことで食べている人に比べれば、カスのようなものなんだけど、苦しいときに吉永小百合さんみたいな人が現れてくれないかしら。
「大倉ちゃん、仕方ないわね、今日は私が書いてあげるわよ」
なんてことは絶対にない。
書かれても困る。

夜中にいつの間にか意識がないまま大本教の教祖、出口なおのお筆先のように自動書記で、何ごとかがびっしり書かれていいるというのもいいな。ただ、あれ、何が書いてあるんだかよくわからないんだよね。
富岡多恵子がその出口なおについて綿密な取材をした後、「三千世界に梅の花」という本を書きましたが、これを読んだときはすごい衝撃でした。
絶版になっているものと思われますから、興味のある方は是非探し当てて読んでください。

書けたり書けなかったり、人生日替わりですわ。

ホント、今日は何を書いているのやら。

ああ、きれいな夕暮れだ。なんてごまかしたりして。
函館。