孤独な天使たち

ベルトリッチ監督だっていうから、またスクリーンの果てまで人が並んでいた「ラスト・エンペラー」みたいなやつかしらとワクワクして試写を観に行ったら全く違っていた。考えてみればべルトリッチはそんなスペクタクルが得意な監督でもなかったね。

14歳、日本では中学2年生。
この頃のガキは何を考えているんだかわからない。人のことじゃなくて私のことです。
私はどうも元来バランスを取るのがうまくて、人様からは「たまにうるさいことを言うけど、面倒はかけないやつ」と思われていたはずである。親も格別おかしなやつとは思っていなかったのではなかろうか。
ところが、自分の中では、不思議の国のアリス症候群や唯我論に悩まされていて、現実と脳内世界に大きなギャップが出てしまっており、お決まりの「誰もわかってくれない」と心の中で悲鳴を上げる美少年だった。あの頃ジャニーズに入っていたらどうなってたんだろうか。「ガラスの少年」とかそんな歌を大ヒットさせて、踊りもすごくうまくなってバクテンとかもしちゃうの。数年そんなことがあって、後は転落の人生。やさぐれて肝臓壊しちゃってたか。
どうでもいか。

その頃、学校で性格テストのようなものがあって、思った通りに丸つけて帰ったんだけど、ある日母親に真剣な目で問いつめられました。
「あんた、何書いた」
「何の話かね」
「私は学校に呼び出されて、大倉君は勉強は問題ないけど、心が病んじょる、って言われたんよ。何書いた」
そう言われましてもねえ。質問に素直に答えただけだもんね。

「あなたの両親はあなたのことを理解していると思いますか」
「いいえ」
「あなたは両親に何でも話せますか」
「いいえ」
という具合に、基本的にほとんど「いいえ」に丸つけていっただけなんだけど、問題ありましたかね。
どうも同じ学年で呼び出しをくらったのは私の親だけだったらしい。
「父親は精神科医なのにどうなってんだよ、この家は」と思ったらしい。
母親は恥ずかしい思いをして帰ってきて、私を問いつめたわけだ。
いやー、皆さんにご迷惑をかけるつもりはなかったんだけど、結果的にこのような事態を招いてしまい誠に申し訳ない、とは言わなかったが、あ、そういう感じのテストだったのね、と初めて理解しました。本当のこと書いちゃいけないやつだったわけだ。みんな嘘ばっか答えやがって。自宅で暴れたり、閉じこもったりしなくても充分閉塞感あったでしょうが。
中学生の頃はそんなもんなんだって。
しかし、母親を大変傷つけてしまったようで、この場をお借りして深くお詫び申しあげます。
頭はしっかりしてるんだけど、昔のことはすぐに忘れるタイプなんで、何のことだかわからないと思いますが。

ベルトリッチはニッコロ・アンティマーニの小説を読んで、すぐにこの映画を作りたいと思ったそうだ。
私のようなことを経験していたのかもしれない。14歳の主人公の少年は人との付き合いがうまくいかず、セラピーに通わされている。たまたま、表に感情が出てしまっているだけで、私の中学生の頃とほとんど重なる「普通」のガキである。
ある嘘をついて、隠れ家を造り1週間閉じこもる計画を立てる。そこへ予想もしていなかったもう一人の主人公が現れ、少年は無理矢理とんでもない「現実」と対峙することになる。で?という映画である。
とても人ごとと思えない。まだまだ私にはこのブログでは書けないことがあるんです。
「私は親が大好きで、何の悩みもなかった」と勘違いしている人もいるかもしれないが、そんなことないって。
どこかにモヤモヤしているものを抱えていたはずだって。
この映画を観ると思い出します。

途中で主人公二人が抱き合って歌を歌うシーンがあるんです。「ああ、傷口に塩を塗り込むような痛くも切ないいい曲だなあ」と思って、宣伝担当の方にあれはなんて曲ですか、と聞いてみたら「実はですね、あれ、デヴィッド・ボウイのスペース・オデッセイなんですよ、でもイタリア語で歌っていて歌詞は全く違う内容なんです」と聞いてびっくりした。
だって、エンドロールで英語の「スペース・オデッセイ」が流れてたんだから。
劇中で気がつけよ、ということなんだけど、あまりにもそのシーンにぴったりはまっていて、原曲があるなんて全く思いもしませんでした。

イタリアが舞台なんだけど、こういうことは普遍的なものなのかもとしばらく感傷に浸りました。

イタリアは都会もいいんだけど、田舎に行くともっと情緒を感じます。