リア充と分人

リア充という言葉があることは数ヶ月前から薄々知っていたのだが、先日構成作家の方にどのような使われ方をするのか会話を使って教えてもらって、ようやくぼんやりと理解できたような気がした。多分勘違いしてると思うけど。

構成作家の方は20代の男性二人が電車の中でリア充を譲り合っている、あるいはリア充と決めつけ合っているところに出くわしたらしい。
「おたくはリア充でしょう」
「いえいえ、君の方こそずいぶんリア充と聞いたけど」的な会話だったらしい。
本当はもっと細かな描写で教えてくれたんですが、コピペしようとしたらどこにあるんだかわからなくなったもんで、簡易版で許してください。
この会話は早い話、現実世界でおつきあいしている女性(男性でも全くかまわないんだけど)がいるかどうかについて、やり合っているそうである。
もともとは友達が一人でもいれば「リア充」と見なされていたらしいが、恋愛、仕事と使用範囲が広がって行ったというようなことがWikipediaに書いてあるが、正直申しまして、非常に短い解説を読んでもわかったと言い切る自信がない。

当然、その世界に通じていらっしゃる方はそんな簡単なものじゃない、とお怒りになるかもしれない。そして、知らない人にはチンプンカンプンである。つい先日まで私がそうだったんだから。
これ、2006年くらいから使われ始めていて、今や大学生の間では使わない人間はいないというほど広がっているらしい。大学生の間では主としてやはり交際相手がいるかどうかで「リア充」かどうかが決まるらしい。
そこには自分にはそんな人がいない、という自虐的な気分と、「てめえだけいい思いしてんじゃねーぞ」という嫉妬がミックスされていて、ただ「いいねえ」という雰囲気ではないという。
だから電車の中の二人も「俺はスッゲーリア充だぜ」と言わなかったわけだ。

言わずもがなだけど、ネットコミュニティに浸かりきっている人がいるから対語的にこういう言葉が生まれてきたわけで、あくまでもネットありきなわけです。「ネト充」という言葉も存在するらしい。
でも、「君はネト充だよね」「いえいえ、そちらこそネト充でしょ」という会話は成り立たなそうな気がするな。
ちなみに「ネト充リア充に対して、誹謗的、暴力的な声を上げる」ともwikiには書いてありました。

なかなか複雑なことになってきている、と頭の中を整理していたんだけど、交際相手がいるいない、はちょっと横に置いておいて、ネットの世界のことも置いておくとしますね。歴史を直視しない暴挙ではありますが。

そうすると、私なんかはブログを書くのに毎朝時間を使っていて、映画は毎日一本近いペースで見ます、本もそんなところでしょう。何が仕事なのかよくわからない状態ですね。そうするとリアルな現実世界で人と触れ合い、会話を交わし、大笑い、なんてことは夜、酒を飲むときくらいしかないわけで、これは果たしてリア充と呼べるのだろうかと悩み始めたわけだ。

たまに一人で長旅に出かけるけど、あれも日本を拠点として現在生活をしている私にとっては現実から逃げ出しているともとれたりするわけで、「リア充ねえ」と笑って観察している場合じゃないことに気がついた。

しかし、待てよ。
いやいや会社に行き仕事をしている「私」という存在と自宅でネットサーフィンをして楽しい時間を過ごしている「私」のどちらがリアルに充実しているんだろう。
現実世界で毎日腹立てたり、楽しんだりしながら仕事をして、古くからの友人と酒飲んで、家族と団欒して、FBに書き込みをして、という人にとってどれがリアルな「私」なんだろうか。
平野啓一郎さんのいう「分人」の世界にどんどん入り込んでしまった。
恋人と笑顔で話をしている私とネット上で怒りを爆発させている私は一貫した存在なんだろうか。
私を完全に「統合」してしまうと、「ああ、もう死にたい」と思うような出来事があったときに、歯止めが利くんだろうか。
「分人」で私を分けていると、どこかから「止めとけ」という声が聞こえてくるんじゃなかろうか。

リア充という言葉が引っかかっていろんなことを考えていたら、「BOOK BAR」で紹介した平野さんの「空白を満たしなさい」が再び頭に浮かんできた。

空白を満たしなさい

空白を満たしなさい

リア充を理解するには、分人を使うのが最も適しているようにも思うんだけど、どうかしら。

旅の最中はアドレナリン出まくりで、充実感はすごくあるんですけどね。
特にかわいい娘さんに出会ったときなんか。
パシュパティナート、カトマンズ、ネパール。