母親と飯と戦争

昨晩は、という出だしが多いな。ま、いいか。
昨晩は6月に一緒にスペインに行った母親と2ヵ月ぶりに会って飯を食った。
近いんだから顔を出そうと思うんだけど、麻雀、ビリヤード、体操、ソーシャルダンス、ピクニックと毎日がとんでもなく忙しくて全然淋しくない、というもんだからしばらくぶりとなりました。

スペインでは炎天下歩き倒して、帰ると「やぱり少し疲れた」と言っていたので当たり前だろうと思っていたんだけど、「あのスペインは楽しかった」と疲れたことは既にすっかり忘れてしまって、またどこかに行きたくなっているらしい。
「あのあと北海道に行ったんよ」と何でもないように話す。
気温38度の日には皇居あたりにピクニックに行って一万五千歩歩いたらしい。
サッチャーどころじゃない、チタンの女だ。
これで81歳だから、既に私の方が先に死ぬことは確定してしまった。

食事をしながら「あんた参院選はどこに入れたんかね」という話から始まり、下関では安倍の後援会の方々に取り囲まれて暮らしていた不自由さからか、「安倍はバカやねえ」と気分良く語っておりました。

母親は平壌で生まれ、11歳まで向こうで暮らしていた。
昭和20年、14歳の頃、女学高に入るんで熊本の甲佐にいた時、畑仕事をしていたらアメリカ軍機一機が突然現れて低空飛行で機銃掃射をかまして行ったそうな。
田舎で畑仕事をする少女を狙ったというのはただの気まぐれだったんだろうが、それは恐ろしかったという。
すぐにうつ伏せになったというから、そういう訓練を受けていたのか思ったら、「あんなんが来たら誰でもそうなる」ということである。

その後、熊本市街は大空襲を受け、焼け野原。
甲佐からは熊本市方面の山の上が真っ赤に染まって見えたという。
日本中どこも焼け野原になったのである。

南京が落ちたときは提灯行列。
重慶で日本軍が爆撃を行った時のことは新聞で知っていたらしい。
その頃はどのような爆撃であったかなんて書かれていないわけで、無差別爆撃、日本がアメリカからやられたことを先に中国でやっていたなんてことは知るよしもない。

玉音放送は学校で聞いたが、小さな音がぶつぶつ切れて何を話していたのか全くわからず、自宅に戻り、当時甲佐の民家に宿泊していた将校に「日本は負けた」と聞いて初めて事態を理解した。

戦争に負けたことが嬉しいとは思わなかったが、戦争に勝たなくてよかった、とほっとしたらしい。
「勝っていたら軍人がどれだけ威張るかと思ってぞっとした」そうな。

何よりも嬉しかったのは電灯がつけられるようになったこと。
敗戦間近ではほとんど毎日真っ暗の晩だったんだからそうだろう。

頭がいいというよりも試験運に異常なほど恵まれていた人で、その後、熊本大学の女学生一期生で男に囲まれて生活していた。
楽しかったろうと私は思います。

今はこの世の春を迎えていて、何でも食い物はおいしくて、本当に出されたものを何でも食べる。

参院選は迷った末、私とは違う党に投票しておりました。
何の問題もございません。

本日は午前、午後とも麻雀らしい。

「インドに行かんかね」と誘ってみるのだけど、「行かん」とそこだけは頑である。