盆に帰省して墓参り

お盆に帰省して墓参りをしたいなあ、と思わなくもないんだけど、就職して以来二回くらいしかそのようなことがない。
盆はみんな移動するでしょ。
下関まで帰るとなるとお金かかるし、混雑の中動くのがすごく苦手なんざんす。

中学校の同窓会というのに、もうこれが最後かもしれないと危機感を抱き、それに出席するため二度帰った。
前回が4年前くらいか。
毎回来てくれていたらしい久富先生は私よりも毛があり、まことにお元気だったので、まだまだ長生きされると安心していたら、年賀状の返信に奥様から寒中見舞いのはがきをいただき、お亡くなりになったことを知った。
妹は毎年律儀に盆に帰り、同窓会と墓参りをすませてくる。
よく続くもんだ、と感心していたんだけど、今年が最後になりそうらしい。
ああいうのは地元に世話をしてくれる人がいないと成立しない。
中学、高校の同期でもずいぶんたくさんの方が亡くなってしまった。
歳を取れば避けがたいことだが、あまり親しくなかった人の話でも淋しくなる。

私は墓参りに行っても、手を合わせてどうするんだかわからなくて、いつも「元気でな」と心の中でつぶやくのだが、死んだ人間に「元気でな」はおかしいと困惑してしまう。向こうもかもしれない。
亡くなった父親、祖母、祖父がいつも見守ってくれているという実感は全くないんで、「お金持ちにしてください」とか「毛が生えますように」とお願いするのも納得がいかない。
そんなことお願いしないんですか。しないよねえ、神様じゃないんだから。
「もうすぐそっちに行くからね」っていうのもちょっとあれでしょ。

小学生の頃、ばあさんとよくテレビのチャンネルを争って喧嘩になった。
こっちは「チャコちゃん、はーい」みたいな番組が見たくて、ばあさんは「野生の王国」を見ると言ってきかない。妹を味方に付けている私は数で押し切る。
ばあさん部屋にこもる。
ばあさんいなくなる。
大騒ぎになって大人が町中を走り回る。
ばあさん墓で発見される。
何回かあったが、二回目からはまた墓に行ったな、ということで捜索も簡単になった。
じいさんに孫を呪い殺しておくれと頼んでいたんじゃないかと思われる。

墓は死んだ人間のためにあるんじゃなくて、残されたもののためにある。
ただ空を見上げて手を合わせるだけでは、ちゃんとしてる感がない。対象物がないと冥福を祈るにも実感が伴わない。
私は墓を否定しない。世界中で墓があるところだと必ずそこに行く。
どうしてだか安心するから。
で、写真を撮る。
怒る人もいると思うが、墓はとてもフォトジェニックなのである。
最近ではトンチンカンな形状のものを作る人もいるがああいうのには心引かれない。
強い思いのあるものには何かしらの美しさがある。

だから、盆には帰らないが、人が働いている平日に帰り、墓参りに行く。
墓参りというより、墓掃除か。
墓を掃除するのは好きなのである。
井戸で水を汲んで、墓にかけ、花を供え、線香を立てるのは私のなかでは墓掃除の範疇に入っている。
それで、大変気分がよろしい。
手も一応合わせますけど。

その墓を巡り、母親、妹と会うたびにこれからどうするか、真剣な話し合いになるんだが、結局結論が出せない。
母親は寺に何も言わず東京にずらかってきたので、毎年納めるべきいくらかのお金をお渡ししていない。
これから頻繁に母親、私、妹が帰ることもなくなるであろう。
どうするよ。
「あんた死んだら、どうして欲しい」と尋ねたら、「最近樹木葬っていうんがあるらしいんよ。あれやったらそのときだけでお金全然いらんらしい」と答えた。樹木葬って聞いたことあるけど、具体的にどうなるのか全く把握できていない。
「でも、下関にあるおやじ、じいさん、ばあさんの骨はどうするんかね」
「それが困るねえ」
いずれ決着を付けなきゃならんのだが、しばらくはどうにもならないことだけはっきりしている。

下関にはまだ家も残っている。
これもどうするのか先が見えない。
家が無くなると淋しいのは母親よりも私や妹たちのような気がする。

妹が墓参りに行ったときの写真を送ってきた。