アメリカ人と車

本日の「ごちそうさん」。
変わってる方がおもろいなあ。チョー普通の私はうらやましい。

本題。
アメリカでの車の売り上げは好調でその筋の方はお喜びでございましょう。
やっぱりアメリカは車社会で、ないと暮らせないな、ペーパードライバーだった私がちゃんと運転を始めたのは32のときにアメリカに行ってからだもん。
駐車場もやたら余裕があって、目隠ししててもぶつけずにちゃんとスペースに収めるようにできたね。
イギリスに行ってからは同じ地球上のことかと思うくらい隣との駐車スペースの違いに驚いて、買い物せずに帰ったこともあるくらいだもん。幸いスーパーの駐車場では苦しみはしたけど、ぶつけずにすみました。
でも、やたら乱立している柱にはギーコギーコ擦ったあとだらけで、でかい連中は運転が下手だなと少し優越感を得ました。
特にすごかったのはスイス・コテッジのウェイトローズの地下駐車場。
ここは地獄の3丁目で前にも後ろにも右にも左にも動けなくなったことがあるくらい設計ミスが明らかでした。
一度イギリスにお住まいの方は行ってみてください。
なくなっていたらごめんなさい。

さて、車は売れているアメリカなんだけど、あら、というデータがございます。
アメリ運輸省が発表している運転距離のデータを見るとピークであった2005年からアメリカ人の運転距離は減少に転じていてその傾向は変わっておりません。
2005年はまだ不況の影も形も見えてない年であります。
ガソリンが高騰している時も安定している時も順調に運転距離は減り続けております。

車は買うが、運転しない?

アメリカの大学院で勉強まがいのことをさせられていたときに「うまいことを言うな」と思わせてくれた教授がいました。
「車が運転できるということは何を意味するんでしょう?」
「エッチなことができるということです」
ドライブイン・シアターに行って、ポップコーンを食べながらエッチなことができるということです」
「ドライブスルーに行けるということです」
「ドライブスルーに行って、安く飯代をあげるデートができるということです」
「君たちを心の底から軽蔑する」
「目の前で故障した車を運転していた可愛い女性を助けてあげられます(これは本当に私が遭遇したことです)」
「メリーランドクラブ(カニ)を食べに行けます」
ボルチモアに行けます」
ホワイトハウスを見に行けます(私達はメリーランド大学という3流大学にいました)」
「もういい。これから一言もしゃべるな。それはね、『自由を手に入れる』ということなんだよ」
おー、なるほど、さすがアメリカ人、と妙に感心したな。
そのくらい車とアメリカ人は切っても切れない関係にあるんだ、と改めて感じました。
確かに車がないとちょっと大学に、と言っても果てしなく歩かなきゃ行けなくなる。
ちょっとテイクアウトの中華でも買いに、ということもできない。
飢え死にする。

そんな生活必需品と考えていた私には「自由を手に入れる」というフレーズが新鮮だったな。
どこへでも行けるは何でもできる、新たな世界を見ることができる、親の束縛から解放される、自分の人生を作ることができる。
なるほど、と東京にいる限り車に乗る必要を一度も感じたことがなかった私は目が覚めた。

そんなことのはずなのにアメリカ人が車に乗らなくなった。
いろいろ解釈があって、これだ、と納得できるものがありません。
ベビーブーマーの高齢化、若者が忙しいから免許を取らない、奨学金の返済でそれどころではない、等々あるんだけど、このところ車は売れてるんですよ。

あるとすれば、社会格差の拡大か。
失業者数、雇用者数が毎月発表されるけれど、あれはあまり当てにはできません。
数字がどのようにでも解釈可能だからです。
せいぜい株価を上げたり下げたりする材料にするだけです。

繰り返しになるけど、車がない限りアメリカでの生活は極端に不便になる。
餓死するわけにはいかないから、車は必要。最小限の幅で移動はする。だけど、自由を手にしてアメリカンドリームを叶えるぞ、ってのはなくはないだろうけど、簡単に這い上がることはできない。
運転距離は減り続ける。

フードスタンプがないと暮らせないアメリカ人が急激に増えている現在、そんなことしか思いつかないんですが、どうなんでしょうか。
事情がよくわからなくなっている私は頭をひねるばかり、どなたかご教授いただけませんか。

こういうのもありだと思いますが。
コチ、インド。