モノガタリ

本日の「ごちそうさん」。
和枝ちゃん!

本題。
20年くらい前かしら、「モノガタリ」という言葉がはやったことがあります。
いろいろな解釈が可能ですが、私なりの理解では以下のようなことでした。
いわゆる小説に代表されるようなフィクションという形態をとった物語とは区別して、人間という極めて特殊な動物には生きていく上で必ず「モノガタリ」が必要になるという意味です。

ですから、モノガタリが物語として成立することがあってもおかしくはありませんが、話がややこしくなるのでここでは分けて考えさせてください。
「人間が生きていく上で必要なもの」と書きましたが、正確には「人間が関わっているものに必要なもの」です。

私達人間は「本能」を持って生まれてきた人間以外の動物と大きく違うのは、その「本能」を失っているからです。
また岸田秀の受け売りでございますが、人間はそのおかげで外界とヴィヴィッドなつながりを持つことが不可能となって、自分が生きていくためにはその「理由」が必要です。
外の世界を「解釈」しなければならないわけです。
「解釈」はモノガタリを生みます。
そのモノガタリを信じて私達はようやく一息ついて、「生きている実感」を手にすることができます。
モノガタリの中身は何でもかまいません。
国、宗教、哲学、運動、人助け、お金、名声、少し離れて、企業、ブランドであってもモノガタリは必要です。

私は今、モノガタリを否定しようとしているのではありません。
それがないと生きる手がかりを失ってしまうのですから絶対に必要です。

なぜこんなことをメモのような形で書いてみたかと申しますと、昨日から再び大騒ぎになっている佐村河内氏のインタビューをたまたま目にしたからです。
FB上でもいろいろ書かれていますし。
私は「おかしな人」という印象はありましたが、「ふ〜ん」と思うくらいでどうしても関心が持てなかったので、本当は重要なことが示唆されているかもしれないこのことに付いては、詳しく調べている方、分析している方にお任せして、興味が湧いて来たら勉強させていただこうと思っています。

で、なぜ佐村河内氏に引っかかったかと申しますと、この方は正に「物語」を書いた人なんですが、それを「モノガタリ」として受けとめた人がこんなに多かったのかと驚いたからです。
さんざん糾弾されていますし、確かに「そりゃないだろ」と嘘を暴きたくなるのはよくわかりますが、みんなこういうモノガタリを望んでいたんだということがよくわかりました。
嘘をつかれたことに腹が立った、という人も多いのでしょうが、むしろモノガタリを壊しやがってと美談を自分のアイデンティティの一部に組み込みかけていたことを崩されてしまったからではなかろうか、と思っちゃったんです。

物語とモノガタリはかくも近いところで並走していたわけです。

どうでもいいことで言えば「一杯のかけそば」モノガタリ、重要なところでは「原子力は未来を照らす」モノガタリ
「愛は地球を救う」モノガタリってのもありますね。
そして「神国日本」モノガタリ
上記4つのモノガタリには近づきたくないのですが、私は「モノガタリ」はモノガタリなんだよ、というモノガタリに興味があります。
それを理解した上で私達はどんなモノガタリを構築できるのか、そこをずっと岸田秀に洗脳されて以来考え続けてきたような気がします。
30年以上考え続けているんですが、これがなかなか難しい。
もしかしたら「物語」を書くことなのかもしれません。

あえて付け加えますと心理学者、岸田秀以外でも人間は「本能」を失った動物であるということを別の言葉で語った学者、文学者は多数います。
また、仏教の本筋はそこにあると私は個人的に考えています。

なんかよくわかりませんでしたか?

ヒンドゥー教というモノガタリ
バクタプル、ネパール。