ガルシア・マルケスが亡くなる

ガルシア・マルケスが昨日のニュースでは退院したが、非常に虚弱な状態と伝えられていたので嫌な予感がしていたんだけれど、やはり亡くなってしまった。
何度かこのブログでも取り上げた気がするんだけれど、この喪失感は大きく重複するところもあると思うが何か書かせてもらわないと収まらない。

私がガルシア・マルケスを読み始めたのは実は就職してからで、遅れてきた読者であります。
名前は知っていてもなかなか一冊目を手に取るまでが時間がかかる作家がいます。
そんな作家の1人でした。

エレンディラ」というタイトルの文庫本を読んだのが初めてだと思う。

エレンディラ (ちくま文庫)

エレンディラ (ちくま文庫)

この本は短編集で読みやすいと思ったんじゃないかと推測します。
エレンディラ」で通じるんだけれど、実際のタイトルは「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の話」でさらに読む人間を前のめりにさせる。
この短編に心を奪われて、世の中にはこういう小説が存在していたのか、と大変な衝撃を受けました。
後に映画化され、それを観てまた驚愕。
今でもエレンディラ(主人公の少女)が最後に走り去る場面と音楽が頭にはっきり記録されている。
DVDで観てください。

それから書店に置いてあったガルシア・マルケスの本は読む読まないに関わらず、見つけるととにかく購入していました。
唯一現在にいたるまで読んでいないのが「族長の秋」。
どうして、と聞かれても困るんだけど、結果的にはいいのを残しておいたと思います。
じっくり時間をかけて読むことができる。

余計な解説をする気はないんだけれど、私の中ではウィリアム・フォークナーガルシア・マルケス中上健次がひとつの作家集団とくくられていて、その土着的作品手法が重なってしまいます。
でも、中上健次がフォークナーを読んでいたという記録はあるんだけど、マルケスのことは出てこない。
こんなことはどうでもいいはずなんだけど、中上がマルケスが双方の作品を読んでどう思ったかを聞いてみたかったと今更ながらに思う私であります。

マジック・リアリズム」か。
本人がそういう呼ばれ方をどう思っていたんだろう、と考えつつ今夜は献杯することになる。