家が崩れるかも

今は誰も住んでいない下関の実家がまずいことになっている、という一報を受けて、こうしちゃいられない、早く行って今後の対応を考えなきゃ、とまあ、建物のことは専門家に見てもらい、その間に友人たちと毎晩酒盛り、とはしゃいでいたんだけど、
こちらが出動する前に早々と専門家の方が見てくださったようで、「そんなに慌てる話じゃない」と断言してくださったため、下関どんちゃん祭り企画はボツになってしまった。

家は人が住んでないとやっぱりダメだね、なんて言うけど、人が住んでいようがいまいが、ダメになる時はダメになるのよ。
普段は月に2度お掃除と風を通すお願いをしているんで、たまに帰ってもこれまでの実家と何ら変わりはない。
これまでよりも屋根裏のイタチ、ネコが増えて、奴らの運動場のようになっている気配はあるんだけど。

駐車場の鉄筋の入った壁が傷んでいるようで、それをどうするかという話でござる。
車なんてないんだから、それ潰しちゃいいじゃん、とシンプルに物事を考えられる人がうらやましい。
世の中「なし崩し的」な現象というのがあって、ひとつが崩れるとすべてに影響が出て取り返しのつかないことになるかもよ。

今回はこうなったら建物全部倒して更地にするか、で、売るか、という議論にもなりそうだったんだけど、実は不良老人の母親は「それでええんと違う」と気軽に話すが、「いや、しかし」と躊躇しているのが私と二人の妹である。
私は14年間、妹たちは15年間、18年間住んだ家で、ここが無くなると「帰る」ところが無くなってしまう。

普段は根無し草的生活、旅の最中の行き倒れが一番、と公言している私であるが、それと帰る実家、というのは少し違うんですよ。
安心して寝られる、とか、寂れた商店街を歩きながらしみじみする、とか、居酒屋で東京ではどうしたって無理という刺身を食う、とか、飛び込みで入るスナックでカラオケ歌っちゃう、とか、深夜必ずどこかでラーメン食う、とか、むつみ村に出かける、とか、いろいろあるんだって。

慌ててどうにかしなきゃいけない、ということはないことはわかったんだけど、いずれ真剣に考えなきゃなんない。
慌てていたとき不良老人の母に「来週なら帰れるから一緒に行こう」と誘ったら、「私はあんたみたいに暇やない。スケジュールが一杯」と突き放された。
はいはい、健康でよろしゅうおますな。

下関のお地蔵さん。

下関の住宅街。

下関のガード下。