「味方」に注意

脳味噌スカタン状態だった頃は何も書けなかったんだけど、Facebookは読むというより、眺めていました。
もしかして皆さんもその程度かしら。
「いいね!」を押すにしても、責任持てないしねえ、ということでスクロールするだけ。
そんなふうに距離を置いていたら、本当にどの投稿に「いいね!」していいんだかわかんなくなっておりました。

気になった記事をピックアップして、一言添えてアップされているものが多いですね。
私もそのようにしていたことがありますし、これからも同様のことがあると思います。

そこでですね、なんだか強い違和感を感じ始めたんですよ。
特に私の普段の主張に近い投稿に対して。
信頼のおける方々の書いていることについては、「その通りだなあ」とうなずくばかりなんだけど、最近はだれかが「いいね!」を押したものまで画面に現れてくるもんで、元記事がどこの誰が書いたものかわからなくなってしまって、私の感情的には納得しそうになるんだけど、書かれている事柄の根拠が非常に曖昧で、それはホンマのことでしょうか、と疑い始めるというところにまで至ってしまったのね。

もともと、マスコミ報道は「偏向上等、中立ありえない」が私の言いたいところなんで、すべてを信用するなんてことはありえませんでした。
違うと思えば批判すればいいし、同意することについてはシェアするなり何なりすればいいでしょ。
ところが、Facebook上では「おー、そうだ、その通り、やっつけちゃえ」と感じる投稿が、怒濤のように押し寄せてきて、「これだけでは判断不可能、保留」をせざるを得ない状況でありました。
特にISISによる人質事件のときなんか。

話は少しずれますが、「私はシャルリ」でもなかったし、「私はケンジ」とも言えませんでした。
事件には強いショックを受けたし、あってはならないことだと考えていますが、風刺画については批判的な気分しか持っていなかったので、とても「私はシャルリ」ではありえなかったし、後藤さんを救うのに「私はケンジ」という「連帯感」を示すということが、どういう意味を持つのかわかりませんでした。
ISIS周辺で起きているあらゆる殺人、殺戮、爆撃の被害者の名前は全く報道されません。
あえてひどい言い方をすれば、ピースサインで写真を撮れば、平和が訪れるのかよ、と毒つきたくなる悪の大倉が登場いたしました。
「愛は地球を救う」のバカテレビをチラ見した時のような脱力感。

ずれてましたね。
ともあれ、本日書きたかったのは、ディスインフォーメーションはそこいら中にばらまかれていて、よほど注意しないとおかしなところに巻き込まれるのではないかという恐怖であります。
このところ「もしこれが本当であるならば」という枕詞をつけて記事をシェアしている人が増えたという印象を持っています。
似たようなことを感じている人が多いんじゃなかろうかと思うんですが。

銀座で偶然見かけたアイルランド人女性たち、と書いて信じる人はいないと思うんだけど、ま、そういうこと。