テスという名前のペット

うちには20年以上前から飼っている犬がいる。
猫の話しかしてなかったんでびっくりしたでしょう。しなかった?

この犬は六本木ヒルズやヒカリエのような商業施設が雨後の筍のようにできる東京では多分買えない。ああいう上質な大人の方々が訪れるようなところにあるお店には置いてない。多分そういうものを売り買いしようと思う人間が存在しないんじゃないかしら。

ロンドンにいた時、休みの日にはしみじみとオープンする敷地面積だけはやたらでかい、カムデンマーケットと一般的には総称される、骨董市のような、泥棒市のような、フリーマーケットのような、ゴミ捨て場のような場所に散歩がてら出かけていた。

現在のカムデンはかなり綺麗になってしまい、当時の面影を知る人間には残念。
あのイギリスという階級社会の中で、ああ、ここは俺がいても誰も文句言わないという場所は大切だったんだけどな。ちょっとオールドデリーのややこしい路地が入り組む商店街みたいなところがあった。

置いてあるものは、大掃除をすれば日本人なら「全部捨てろ」となりそうな、「いやもう、マジでこれ人に売りますか、着せますか、使わせますか」というほとんどガラクタに等しいとも思えるものや、「これはもしかしたら、見る人が見れば10万円はしそうだな」と思わせるようなグラスが500円くらいで売ってあったりした。多分100円くらいで仕入れたんだと思う。そういうのをつい買っちゃうのよ。いくつかはまだ生き残って活躍してくれている。

本当に崩れ落ちそうな掘っ立て小屋に入っていればいいほうで、屋外に商品並べてたりするから雨の多いロンドンでは、いつもわさわさ片付けたり、並べたりで楽しそうだったよ。

ある日、小屋の片隅で犬を売っていた。
そんなことは珍しいんだが、一目見るなり欲しくなってしまった。10年に一度あるかどうかの邂逅である。スゲー存在感。美しいシルエット。ハンサムな顔立ち。吠えなくておとなしい。
「ちょっと、それ抱かせて」とおねえさんに頼むと悲しそうな顔をして手渡してくれる。抱いてみてすぐにわかった。こいつはうちに来たがっている。
「これいくら?」
「50ポンド」
当時の為替レートを忘れたが、一番円が安かったときだと12500円。
そうだろうな。それくらいはするだろう。
普段の生活ぶりからすると、絶対に手を出さない。
でも、もう抱いた瞬間に買うことを決めていた。
「じゃ、これくださいな」
「あー、えーっとね、こっちの犬じゃダメ?」
「いや、それは嫌い」
「それどうしようかな」
「どうしようかって、あーた、売ってたじゃん」
「そうなんだけど、本当に買う人がいるとは思わなかった」
「売る人がいれば、買う人がいるんだよ」
「いやー、でも売りたくなくなっちゃった」
「もしかして人種差別?」
そんな場所じゃないでしょ、ここは。
「全然」
「じゃ、売ってよ」
「ずーっと可愛がってきたの」
「わかるよ。可愛いもん」
「でしょ、だからこっちにしたら」
「それは嫌だって」

商売になっていない。
こっちは1ポンドも値切ってないのに、売り手が粘っている。しかし、値上げしようという動きもない。
なだめにかかった。

「俺はこいつがすごく気に入って、とても大事にするから頼むから売ってくれ」
「ずっと一緒だったの」
「わかるよ。でも、さよならだけが人生なんだよ。お別れの時期が来たんだよ」
「ほんとに大事にしてくれる?」
「約束する」

TRUSTだのPROMISEだのSWEARだのありったけのボキャベラリーを動員して、お姉さんを説得した。
「いつまでも大切にするから、安心して。ちゃんと可愛がるよ」
ということで、何とか金を握らせることができた。
最後にもう一度、可愛くない犬を持ち上げて、「ん?」という顔をしたが、「ん〜ん」という顔でお断りした。

自宅に戻って名前をどうするか考えようと、じゃれていたら足の裏に「TESS」と名前が書いてあった。本当に仲良く一緒に生活していたのね、あのお姉さん。


不思議なことに犬を買って以来、何度もカムデンに足を運んだが、そのお姉さんと二度と会うことはなかった。

テスです。

約束どおり、大切に可愛がっていたのだが、娘が生まれて、勝手に動き回るようになってから、背中に乗ったり、尻尾を掴んで振り回したりしたんで、何回か手術をした。
足のギプスはまだ取れていない。