味噌、メンカタ、大盛り

本日の「ごちそうさん」。
ふ久は哲学者でもある。

本題。
1987年、88年と私は当時勤めていた会社でかなり働いた。
80年に入社しているんだから毎年働いてるはずなんだけど、人間「ああ、俺は働いたよ〜〜〜」と思える時期なんてそんなにないんじゃなかろうか。
人のことは置いといても、私は17年間のサラリーマン人生で何のためらいもなく「働いた」と言えるのは6年間くらいかしら。あとの11年は寝て暮らしてました、ということではないんだけど、わかっていただけますでしょうか。
残業が多い、とか、取引先と仲が良かった、とかいうことでもないんだな。
残業はどちらかと言えばその6年の方が少なかったかもしれないもん。
まあ、そんなこと。

80年代の終盤はバブル真っ盛りで毎晩エー思いしたんちゃうの、と思われる方が多いようだけど、そんな記憶は全くございません。
私が勤めていた会社は交際費がほとんど使えなくて、カスカスの生活。
取引先と飲みに行っても自腹は当たり前。
銀座で豪遊なんて考えたこともなかったわい。

88年に私が担当していたラジオ局が開局ということになっていたので、それに向けての作業は複雑怪奇を極め、翌日の朝から喧嘩するにも頭が回らないから、酒の量を控えていたくらい。
そんなことができる人間じゃないのにさ。
自分の会社にはほとんどいることができず、当時は公衆電話を使って電話かけまくり。
そうでなければまだ開局していないラジオ局で人のデスクに座り込み、まるでそこの社員のような顔。

こそこそ話、怒鳴り合い、泣き落とし、あらゆる手段を使って生意気やっておりました。

開局当時からまだそのラジオ局に残っている方はもう数人。

5年前にお辞めになった若森さん(仮名だけど、この局を知ってる人なら誰でもわかる)には大変お世話になりました。
私よりも10歳年上でいらっしゃるので、若い私のわがままを受けとめていただいて、いつもニコニコ笑っていらした。
笑うしかなかっただけなのかもしれないけど。
別に亡くなったわけじゃありませんよ。
昨晩4年ぶりにお会いして、かつて毎晩の締めに通ったラーメン屋に行くという目的を立て、それを実行しただけ。

この若森さんは酒を飲み始めると食わなかった。
最悪の飲み方。
「病弱なんでお酒を2合浸けてちょうだい」を何度も繰り返すんだけど人の食い方にも文句をつける。
「シンちゃん下品だねえ。そんなに食うもんじゃないよ」
「食わなきゃ悪酔いすんだよ」
「いやー、今日もきつかったね」
「そっちが『はい』って言えばすむことじゃん。ここで言いなさいよ」
「そんな無粋な」
「こっちは仕事してんです」
「そりゃこっちだって仕事してるよ」
「あれで?」
無茶言いました。
失礼にもほどがある。

安い店で散々管巻いて、最後は防衛庁前の天鳳
週に3回くらいは通っていたんで私が何を頼むのかお店の方は先刻ご承知。
「味噌・・」まで口に出すと「はい〜、味噌、メンカタ、大盛り」と答えてくれていた。
私は1・3・5より味噌派だったのよ。
ここのラーメンはガツッとした男のラーメン。
柔な胃じゃもたない。
ラーメン食ったらさっさと立ち上がり、車をつかまえないと帰れない。
高い店に行ったことはなかったけど、タクシー券だけはそこそこ持っていた。
問題は流しの車がないことで、電話で呼ばない限り路上で寝ることになる。
その局には隠しナンバーが割り当てられていて、一般の回線よりは繋がりやすいんだけど、それでもダメな時はダメ。
延々とかけ続けた末に「OOのワ・カ・モ・リと申しますが、六本木防衛庁正門前にニ・ダ・イお願いします」。
そりゃまあ電話口で偉そうにしゃべること。

昨晩はアウグスビアクラブで5時から飲み始め、8時にはラーメン食って帰る、というコンセプト。
昔じゃ考えられん変化。
ビールを飲んで外に出るとここはアメリカ東部かというくらいの寒さ。
一気に酔いが覚めました。
なんでこんなに離れた場所で飲むかね。
天鳳まで歩くのも辛かったわ。

「味噌、メンカタ、大盛り」
「俺も」
「あら、大盛り?」
「今日は調子いいんだよ」
ということで、ニンニクこれでもかと叩き込んで、思いっきり食いました。

ああ、なんだかゆったりした幸せな夜だったわ。
タクシーなんて頭に浮かぶことなく、店先でお互い地下鉄の駅を目指して別れました。
歳取って、同じ会話に同じラーメン。
これでいいんだよ、俺は。

チャーシューが多いのは若森さんが苦手で、私のどんぶりに放り込んだからです。