鈴木大拙館

昨晩のBOOK BARでは「食う 寝る 座る」という永平寺で1年雲水として過ごした我慢強い方の体験記を紹介いたしました。

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

永平寺というのは、あれか、体育会でも相当たちの悪いたぐいの連中を集めたのか、と最初の数十ページを読む限り勘違いしそうになるくらい世界で一番修行のつらい場所であります。
私は様々な身体の不都合があるので、最初からそんなところで過ごそうなんて思わないんだけど、自分からお山に向かっちゃう若者がいるからまだまだ世の中捨てたもんじゃない。

永平寺曹洞宗大本山のひとつで知らない人は知らないだろうけど、知っている人は恐怖で顔が凍り付く。
駆け出しの雲水はつらいよ。
怒鳴られる、殴られる、蹴られるの3本立てに加えて、腹が減るってのもあるんだから。

曹洞宗は禅である。
禅とは、と説明するのは面倒なので自分で勉強して。
永平寺では様々な修行の中心にあるのは座ることである。
ただ座る。
只管打坐。
とにかく座る。
瞑想とか教義を振り返るとかそんなことはしちゃダメ。
結跏趺坐にて座り続けるのである。
当たり前だけど、寝るのも禁止。
寝ると殴られるんじゃないかな。

ずれますが、私は結跏趺坐ができた。
今はできない。
床であれ、椅子の上であれ何しろ座った。
飯を食う。
酒を飲む。
コピーを書く。
すべて結跏趺坐にて執り行っておりました。
修行じゃないよ。
ただ、そうすると安定してたんです。
姿勢も心持ちも。
会社で椅子に座り込みコピー1000本ノックを受けていた時もずっと結跏趺坐。
みんなおかしな顔してみてたけど、「やめんかい!」と言わないのが悪くもなかったかな。
しかし、今になって思うと膝のすべての半月板が割れてるっていうのはそのせいじゃないか、と思うこともあり。
「それはないですよー」とBOOK BARのディレクターには言われたが、そんな気がしてきた。
椅子の上で結跏趺坐でいると床に座っている時よりも膝は下に下がる。
無理があったんじゃないかな。
まあ、もうどっちでもいいです。
いずれにせよ、もう結跏趺坐はできません。
半跏趺坐も無理。
正座も無理。
脚を崩しまくって5分ごとに姿勢を変えるという何しろ落ち着かない大人になってしまった。
大倉に座禅をさせることはあきらめてください。

先日、金沢に行ったときに賢義弟から「鈴木大拙館に行きましょう」と誘われ、二人でぶらり哲学の旅へ。
永平寺曹洞宗でありますが、鈴木大拙は一応臨済宗で教えを乞うています。
両方禅だけど、違いはあります。
しかし、世界の鈴木大拙には宗派なぞ関係ない。
私のインド哲学、仏教学の先生は一度もお会いしたことのない中村元先生だが、鈴木大拙先生も尊敬申し上げている。

緊張するなあ、と緊張してモダンな作りの鈴木大拙館を訪れたんだけど、ここは建物自体が「空」である。
展示空間もあるんだけど、掛け軸とお花くらいのもの。

もしかしたら写真くらい置いてあったかもしれないけど、それは、まあ。

ここのハイライトは思索空間。
思索空間では座禅を強要されることもなく、と申しますか、そういうスペースではない。
腰掛けて、皆さん自由に思索の旅へ旅立っていただくことになっている、と私が決めた。
ここを水鏡の庭と名付けられた水を張った広い空間が包み込んでいる。

私の心は遠いネパールのチベット仏教の整地、ボドナートへ飛んでいたかな。
ボドナートはもっとゴジャゴジャしてるんだけど。

水鏡の庭の中程に定期的にポコッと水が盛り上がる場所があり、そこから波紋が静かに広がって行くのを見て、少しあざといかな、と一瞬邪悪な気持ちがよぎったけど、じっと座り込んでいるにはなかなかのところ。

賢義弟の後ろ姿。
ちゃんと髪の毛がある、とまた世俗にまみれた私の心が揺れた瞬間。

帰りに同じところから退出したんだけど、あら、こんな長い廊下が素晴らしい。
廊下というのは大切なものだと改めて感じた次第。

冒頭で紹介した本を番組で取り上げてから、この記事を書こうと思っていました。
ようやくそれがかない、少し幸せ。