ゴーイング マイ ホーム

一週間も前に終わったテレビドラマのことを書くとはどういうつもりか、とお叱りを受けるだろうが、あまりにも内容について触れられず、視聴率のことばかり、「山口智子復活ならず」「惨敗」とか頭のおかしなことばかりが週刊誌やネットニュースで流れるので、私が立ち上がる次第である。

私も視聴率、聴取率(ラジオの場合)が気にはなる仕事をしているので、「視聴率、バカバカしい。関係ない」というようなことは言わない。広告会社のラジオ部門で働いていた時は、あまりにも聴取率が低いと得意先に持って行く資料を改竄してやろうかと真剣に考えたこともあるくらいである。

ただ、人の心を激しく揺さぶったり、会話の微妙なやりとりの中に大事なことが隠されているようなドラマは、概して視聴率が低い。「ほらここが面白いでしょ」といくら言ってもそれは視聴者が決めることだから手のつけようがない。
家庭訪問しながら無理やりチャンネル合わせてもらい、「ほら、ここが切ないね」「ここはアドリブかもね」と解説する非常に迷惑なローラー作戦を展開するしかなくなります。

であるから、作ってしまえば後の祭りなんだけど、間違えてはいけないのは視聴率のいい番組が人の心に響いているとは限らないということでございます。

昨年放送された「それでも、生きていく」は平均視聴率が9.3%とかなり苦戦を強いられたドラマだったが、その年の放送賞を総なめにするほど素晴らしい出来だった。放送賞だけではなくて、視聴者の満足度を測った指数でもずば抜けた数字をはじき出していた。
あまりにも辛いストーリーだったんで、途中で見れなくなってしまった、という人も知っている。そのくらい覚悟を決めてないと心が折れる内容だったが、私にはこれまで見たドラマの中で特別な存在でございます。

視聴質という言葉が昔はよく使われていて(今でもかも)、見ている人をイメージしてスポンサー提供しましょうよ、という広告会社、放送局側の都合で作られた言葉で、結構浸透しそうな時期もあったのだが、ものが売れなくなってからは、スポンサーも費用対効果を重視するようになって、なかなかうまくいかないようでございます。

かくいう私も決して「質が良い」とはいえない番組見て、ゲラゲラ笑っていることもある。視聴質としては低い人間なんだろうとひねくれてしまうこともあるんで、もろ手を挙げて視聴質万歳という気分でもない。

ほんの一部の例外を除いて、テレビ番組の1社提供ということはまずない状況なので、太っ腹のスポンサーが「視聴率は気にしないから、心を震わせる番組を作ってくれたまえ」と言ってくれることは今はもうないね。
そんな中でドラマ制作者は苦労しながら視聴率が取れて、見てよかった、と思える番組を作ろうと努力されております。あるいはそうだといいなあ、と願っております。

だけど、「それでも、生きていく」の例があるように、両立させることが難しいこともあるんだよ。

ゴーイング マイ ホーム」はもっと評価されるべき番組です。
映画で評判がいいから是枝監督を起用した、で、失敗したともろもろ言われている。でもね、ミスキャストは一人もいなかった。主人公も特定しにくいような群像劇だが、誰が欠けても成立が難しい微妙なバランスの上にぼんやりしたテーマを乗せて、見ている側を1時間違う場所に連れて行ってくれた。
ドラマ全体がかもし出す雰囲気はまさに是枝監督にしか出せない技であった。
どう撮ったのかわからないが、画質が明らかに異なっていて、どこもピントバッチリというつまらない絵作りをしていない。
会話のやりとりはどこまでがフィックスされていて、どこからがアドリブなのかわからなかった。全てがアドリブなしのきっちりしたセリフだったのかもしれない。そのくらい出演者たちの言葉は生きていた。

全話の平均視聴率が7.9%、最終回は6.0%だったそうな。
最近は家にテレビを置いていない友人が多いが、私はテレビもよく見る。
実際、このままでえーんかね、という番組が多いことは認めるが、それは制作者側もよくわかっている。
視聴率というのは実は番組の内容を吟味する材料ではなく、視聴者を試す数字なのかもしれないとも思ったりする。

ひとつだけどうでもいいことなんだけど、「ゴーイング マイ ホーム」というタイトルがどうもしっくり来ない。「お家に帰ろう」という意味であれば「ゴーイング ホーム」で英語では充分で、マイはいらないんじゃねーの、と思いました。文法的にはどうなんだろう。でもマイがないとよくわからん、ということだったのかもしれない。

下関の実家前からみえる光景。